2025.11.09
「隣人を愛す」 ルカの福音書 10章25節-37節 井上圭 伝道師
近隣の騒音やトラブルが事件に発展するニュースが聞こえてきます。些細なことがきっかけで痛ましい事件に繋がっていくことがあります。聖書はあなたの隣人を自分自身のように愛しなさいと教えています。
今日の箇所は良きサマリア人の話ですが、このたとえ話に出て来る良きサマリア人は、強盗に襲われ死にかけていたユダヤ人を介抱し自分自身のように愛することを実践しました。聖書で最も重要な教えは神を愛し隣人を自分自身のように愛することですが、この戒めを守ることは簡単なことではありません。ここにこそ神の御心が聖書全体を通して現わされています。ある律法の専門家が「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」(ルカ10:25)と、彼は探求心からイエスに質問しました。イエスは律法には何と書いてあるか尋ねると、彼は「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」(ルカ10:27)と答え、イエスは「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(ルカ10:28)他の聖書箇所でも金持ちの男が質問しイエスは答えました。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。…」(マタ19:21)彼は悲しそうな顔をして立ち去りました。二人の共通点は自らの行いによって永遠の命を得られるという誤った考えを持っていたことです。罪人の人間にはこの二つの戒めを完全に行う事は出来ません。「しかし律法の専門家は、自分がある人々を愛していないことを正当化しようと、『隣人とはだれのことですか?』と聞き返しました。」(ルカ10:29 リビングバイブル訳)彼は自分なりに隣人を愛していると思っていたのです。
当時のユダヤ人は、異邦人やサマリア人は愛の対象だとは思っていませんでした。そこでイエスは隣人についての解釈が間違っていることを教えようとなさいました。「ある人が…強盗に襲われた…祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も…反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は…見てかわいそうに思った。そして近寄って…宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼は…『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』…」(ルカ10:30-35)祭司とレビ人は通り過ぎたがサマリア人は敵対するユダヤ人なのに介抱して宿屋に連れて行きました。サマリア人が傷ついたユダヤ人に対して示した態度は、隣人を自分自身のように愛しなさいと言われた愛そのものです。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(ルカ10:36)「その人にあわれみ深い行いをした人です。」…「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37)律法の専門家にとって自分の理解していた隣人と神の思われる隣人とは違うと気付かされたのかもしれません。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」(Ⅰヨハ4:20-21)神はこの命令を私たち一人一人に命じておられます。しかし私たちは神を愛し隣人を愛する戒めを必死に守る必要はありません。イエスが私たち一人一人を救い出すために隣人となってくださり永遠の命が与えられたからです。私たちはすでに永遠の命を与えられた者として自発的に喜びをもって神を愛し、隣人を愛しましょう。神を愛しているか、隣人とは誰かを問いかけ歩む者になりましょう。
「…信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」(Ⅰヨハ3:18)神の命令は決して重荷とはなりません。私たちの内の聖霊を通して、神への愛が燃やされて行く時、互いに愛することが重荷ではなくなります。主の愛に満たされるよう聖霊に助けを求め良きサマリア人へと作り変えてくださることを信じましょう。神は私たちの中に愛の種を植えてくださっています。その種が愛の実を結ぶとき、人々がそれを受け取ることを信じていきましょう。
≪分かち合いのために≫
- 今日の御言葉から個人的に何を語られましたか?
- 「隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めについて話し合ってみてください。
今日の暗唱聖句
「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」 (ヨハネの手紙第一 3章18節)
