2024.11.03
「捜し出す神」 ルカの福音書15章1節-10節 井上 圭 伝道師
誰でもものを失くすことはあるでしょう。失くしても大したことのない場合や、どうしても探し出さないといけないほどに大事なものもあります。それぞれどんな価値があるかにも依るでしょう。神と私たちの関係はどうでしょうか。今日の聖書箇所から考えてみましょう。
イエスは譬え話をしましたが、その一つ目は「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(ルカ15:4)というものです。百匹の羊のうち一匹が失われましたが、残りの九九匹の羊を野に残したというのです。その九九匹が獣に襲われたらどうしようなどという心配があるかもしれませんがそちらにではなく失われた方の羊がメインの譬え話であり、羊飼いにとっては九九匹の羊と同じように大切な羊なのです。この話を語ったのは直接的にはパリサイ人や律法学者に向けてなされました。彼らは、自分たちは失われた一匹即ち罪びとではないと確信していた上に、罪びとや徴税人たちは神の救いを受けるに値しないとさえ思っていました。
しかし「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)とあるうえに「義人はいない、一人もいない。」(ローマ3:10)のですからパリサイ人や律法学者も罪びとであり失われた一匹であると諭したかったのです。前述の「なくした」「いなくなった」(ルカ15:4)のギリシャ語は滅びる、死ぬ、という意味があります。この羊はだれかに見つけ出されない限り死ぬほかありません。罪びとも神によって救い出されなければ滅びるしかないのです。ところが神は「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩」(ルカ15:4)いて下さいました。それは神にとって私たちは「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言ってくださる存在だからなのです。ですから神は今も休むことなく失われた羊=罪びとたちを探し回っているのです。イエスは「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)という使命を感じていたからです。それだけではありません。探し出したら「家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。」(ルカ15:6)とその大きな喜びを隠しきれないでいるのです。
もう一つの譬え話はドラクマ銀貨一枚を無くした女性の話です。ドラクマ銀貨とはローマ通貨の1デナリに相当し大人一人の一日分の賃金にあたります。当時、ドラクマ銀貨10枚をつなぎ合わせて1セットとし、花嫁料とする役割がありました。単に1日分の賃金とは言い切れなかったのです。これはちょうど「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(Ⅰコリ12:27)という聖句のように教会の一人ひとりが欠かせない存在であるのに似ています。この女性は「また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。」(ルカ15:8)と徹底的に探し出しました。これは、失われた一匹の羊が見つかるまで探し出す羊飼いと同じです。しかも「見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。」(ルカ15:9)とここでも喜びを表しました。
神は失われたアダムに「あなたはどこにいるのか」(創3:9)と語り掛けたように、失われている全ての罪人に「あなたはどこにいるのか」と語り掛けておられます。そして今では、捜し出す役目を私たち教会に委ねられました。あなたが捜し出す人がどこかで待っています。あなたを通して神は救いのわざを成し遂げて下さるのです。荒野に叫ぶ声となって、私たち教会は捜し出す者へとなっていきましょう。
≪分かち合いのために≫
- あなたが神に見つけられる(救われる)まで、どれくらい神が捜されたと思いますか(人、時間 など)?
- 喪失したものが見つかった体験や無くしたものを探した体験を話し合ってみてください。
今日の暗唱聖句
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」 (ルカの福音書19章10節)