2025.09.21
「成熟を目指して」

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。……鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 (Ⅱコリント3:16-18)
先日、教職者の大会で一人の兄弟と久しぶりに再開をいたしました。以前の彼はまだ20代そこそこの駆け出しの会社員でした。まだ教会生活も短く、何処となくたよりなくつかみ所のないような印象しか持っていませんでした。
ところが今回、彼の方が声をかけてくれたのですが、最初は誰か分かりませんでした。以前の彼は茶髪に髪を染め、ピアスをしていました。しかし目前の彼はスポーツ刈りで背広にネクタイのいでたちなのです。言葉はハキハキと明るく、笑顔で話す姿は以前の彼とは大きく変っていました。訊くと現在教会のスタッフでフルタイムで献身しているとか。神様がこの若い兄弟になしてくださったみ業に心から感謝いたしました。神様は人を成長させてくださるお方であるとつくづく実感した次第です。
同様に主は私たちを変えてくださいます。神様に取り扱われると,どんな人でも変えられ成長させられるのです。私たちは恵みにより,信仰によって救われました。でもそれで終りではありません。それは始まりなのです。
もし生まれた赤ちゃんが発育が遅く、成長がないと親は心配します。なぜなら,成長するのが自然であり、成長しない事は病的である事をうかがわせるからです。クリスチャンの成長も同様です。肉体的成長と違い霊的な成長は人によって個人差があります。洗礼は受けたけれどもまだ赤ちゃんと同様のクリスチャンであるかもしれません。当初は熱く燃えて熱心に教会生活を送っていたのに、いつの間にか霊的成長がストップしている人がいるかもしれません。
成長する為には食物が必要です。わたしたちの霊的成長に必要な糧は先ず第一に御言葉です。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(Ⅰペテロ 2: 2 )とあるとおりです。ですから,毎日少しづつでもよいですから,聖書をしっかり読みましょう。でも、読んでいると「これは難しい。私には出来ない。まだまだだな。」と聖書に忠実に生きることの難しさを覚えるでしょう。でも、ここで逃げてはなりません。ここからが成長の始まりなのです。聖書は,「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」と語ります。私たちはみことばに従えるように主に向く、つまり、祈るのです。自分自身を捧げて祈り始めるのです。すると主は御霊ですから,聖書が私たちに約束しているように、聖霊様が私たちの人格に、また性質に、そして生活や心構えに介入してくださるのです。それこそ「御霊なる主の働き」なのです。
主は「栄光から栄光へと」私たちを変えてくださいます。自分を見ないでイエスに向き合いましょう。イエスのみ顔を仰ぎながら,主の助けを求めましょう。自分で、「できる、出来ない」の判断を下すのではなく,聖霊なる神に働いていただきましょう。聖霊が働かれる所には自由があります。自分の無力を覚えれば覚えるほど主の前に出て御霊なる主の働きを求めましょう。そこに私たちの信仰の成長の秘訣が隠されているのです。
(プレイバック週報2004年2月8日「牧師館より」 西田育生師)