2025.09.14
「迂回の恩寵」
「それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」(創世記45章7節~8節)

大阪女学院の院長をされ、1970年に開催された大阪万国博覧会のキリスト教館設置と建設に尽力をされた西村先生の言葉を思い出します。先生はすでに天に召されておられますが、私が未だ大学生の時に教会の特別集会に先生が招かれて来られました。
万博のキリスト教館はプロテスタントとカトリックが参画して、福音の宣教とキリストの証の場として設立されましたが,この建設は紆余曲折いたしました。当時のキリスト教界の中では70年の安保闘争の余波もあいまって、資本主義の象徴である万博にキリスト教会が荷担してよいのかという安保反対の側に立つ人たちからの強硬意見が噴出しました。建設反対の妨害の実力行使までおきようとするほど激しく対立したのです。
計画も滞り、当初の建設資金のための寄付や献金も不足し実現が不可能に思われていた時、西村先生は自宅や私財を全て投げ打って献げられ、この事業の完成に寄与されたのです。結果、万博を訪れた沢山の方々が日本のキリスト教の歴史に触れ、神の言葉である聖書を手にすることが出来たのです。西村先生はその後、都会から離れて農村で生活をされながら、要請があるとキリストの証のために全国に出かけていかれました。
「迂回の恩寵」、これは先生がメッセージの中で語られた言葉です。全てを記憶しているわけではありませんが,私の心に何故かいつもあります。人生にはよく遠回りを余儀なくされる事があります。また思うように行かない事がおこります。待たされて待たされてイライラするような事もあります。ストレートに真っ直ぐ行けばどんなにか近いだろうに、回り道をさせられる。また、周りを見ればどんどん進んでいって、自分だけ置いてきぼりになっているのではないかと焦る。
でも、それは自分の視点からだけ見るからわからないのであって、神の視点はそれとは違う。私たちのために最善の道を備えておられる。むしろ迂回しなければならない神様のご計画とそこにしかない恵みがあるのです。ところが私たちはその事がわからないのでなかなか待てないし、結論を焦って急ぐのです。
「自分の家がなくなり便利さとかけ離れた田舎に住むようになりましたが、不自由どころか毎日神様の恵みの中に浸って生かされていますよ。わたしに神はすばらしい恵みの場を用意しておられました!」そう言って感謝と喜びに溢れておられた西村先生のお顔を忘れる事はありません。神を信じて信頼して歩めば後になって必ず全てが神の恵みだとわかるのです。「あの時遠回りをさせられ、迂回させられたことは恵みだったんだ!」とおもえるようになるのです。ですから呟かないで,イエスの恵みにだけ心を寄せて歩みましょう。
「それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」(創世記45章7節~8節)
(プレイバック週報2004年2月1日「牧師館より」 西田育生師)