2023.11.26
「人々の手本となる」 テモテへの手紙第一1章12節-17節 西田育生牧師
パウロはエペソの教会を任せた弟子のテモテに励ましの手紙を送りました。テモテがエペソの人々との間に壁を感じて落ち込んでいたからです。パウロはテモテに自身を見本とするよう語ります。「私は私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。…」(Ⅰテモテ1:12)パウロは「感謝しています」と言っています。イエスがおられ、イエスを見上げる時に力をいただいたのです。
しかし、パウロが真面目に伝道していたから感謝し強められたのではありませんでした。「私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるうものでした。しかし、信じていないときに知らないことだったのであわれみを受けました」(テモテⅠ1:13)これは、イエスを信じる前のパウロの姿です。彼は当時、自分の信念に従って神を冒瀆し、信じるものを迫害していていました。パウロは間違ったことはしていないと自負していました。ところが「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)と、キリストに出会って考え方が180度変わりました。「自分は罪人のかしら」がパウロの自己認識になったのです。神の目から見れば私たちは皆罪人です。そういう認識があればあるほど救いの恵みがわかるようになるはずです。罪人だと自覚していないことが問題なのです。
パウロはクリスチャンを迫害することは間違っていないと思っていました。しかし、ダマスコに向かう途中で光にうたれ「サウロ、サウロなぜ私を迫害するのか」(使徒9:4)というイエスの声を聞いてこのお方こそキリストだとわかったのです。このように神が働かないと自分が罪人であるという自己認識が起こってきません。そのころパウロはまだ自信満々でした。「私は生まれて八日目に割礼を受け・・・ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、…律法による義については非難されるところがない者でした。」(ピリピ3:5-6)とあるようにパウロは自分ほど優秀な者はいないと思っていました。しかし「・・・自分にとって得であったこのようなものすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。…私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえに、私のすべてを失いましたが、それはちりあくただと考えています。」(ピリピ3:7-8)キリストの恵みに比べれば今までのプライドは「ちりあくた」のようなものだと思うようになったのです。パウロは神の救いを身をもって体験しました。本当に自分は罪人のかしらだった。でもそんな私をイエスは救ってくださった、と神の恵みを体験したのです。「私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。」(ローマ7:20) とパウロの葛藤が書かれています。それを断ち切ることができるのはキリストのいのちのみ霊の原理です。「私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるうものでした。しかし、信じていないときに知らないことだったので、あわれみを受けました。」(Ⅰテモテ1:13)「あわれみ」とは裁きを受けるべきものを裁きを受けなくて済むようにしてくださることです。神が私を救ってくださったのは神のあわれみです。「しかし、私はあわれみを受けました。それはキリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私をご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした」(Ⅰテモテ1:16)罪人のパウロでさえ救われ人々への見本とされたのです。神の恵みとあわれみに満たされたら感謝・喜び・賛美が起こってきます。
≪分かち合いのために≫
- 罪びとのかしらというパウロの認識についてどう思いますか
- 神様のあわれみと恵みはあなたの人生にどのようにあらわされていますか
- 日々の賛美と感謝を捧げるための具体的な行動はありますか。
今日の暗唱聖句
「しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず 私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするため でした。」 (テモテへの手紙第一 1章16節)