2025.03.16
「仕える喜び」 コリント人への手紙第二 8章 1節-5節 井上 圭 伝道師
今日の聖書箇所には献金のことがメインで記述されています。しかし、金品をささげる気持ちと仕えたり奉仕する気持ちは根本的に同じといえます。献金が前面に出ていますがそうではなく奉仕すること、仕えること、宣教すること等々、本質的には同じでしょう。その姿はキリストの満ち満ちた身丈に成長している姿の一つの要素と言えるのではないでしょうか。それを念頭に入れて仕える喜びとはどういうものかを考えてゆきましょう。
「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。」(Ⅱコリント8:2)とあります。極度に貧しいけれど惜しみなく施す、という一見矛盾した中に今日のポイントがあるのです。この教会のあるマケドニア地方は、ローマ帝国に実効支配されていたためマケドニア人の富のほとんどが奪われていました。ところが惜しみなく施すことができたというのです。この聖句の「施す」という原語は「寛大さ」の意味があり、「富」という原語は「豊かさ、充足感」の意味があります。では、この心の寛大さ豊かさはどこからきているかと考えると「満ちあふれる喜び」からだと言えるし、それはイエスとの交わりから来る満ち溢れるいのちの豊かさであり、イエスの十字架の愛なのでしょう。私たちは、今の自分には貧しいのに与えることはできない、とつぶやくかもしれませんが「イエス様、私をあなたのいのちで豊かに満ち溢れさせてください。そして喜んで献げる信仰を与えてください」と祈るものになりたいものです。
次に「…彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、…」(Ⅱコリント8:3)と続きます。これを読むと二枚のレプタ銅貨を献げたやもめの記事を思い出します。イエスはこのやもめのことを「…この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。…この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(ルカ21:3-4)とたたえます。別の聖書個所では「わたしに奉納物を携えて来るように…進んで献げる心のある人から、…」 (出エジプト25:2)とモーセに命じています。ダビデも「…真っすぐなことを愛されるのを私はよく知っています。私は直ぐな心で、これらすべてを自ら進んで献げました。…」(Ⅰ歴代29:17) と告白しています。神はすべてのものをお持ちなので何かを欲しいわけではありません。神は人の心、進んで献げる心を見たいのであり、まっすぐな心を愛されるのです。私たち一人ひとりの心のうちに自ら進んで献げる心の種があるはずです。イエスの愛や聖霊に満たされるなら寛大な豊かさをもって主に献げるものへと変えられるでしょう。
続いて「聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。」(Ⅱコリント8:4)とあります。「奉仕」とは言語をたどると「ディアコノス」に通じ、給仕する人、食卓に仕える人のことなのでわかりやすいです。次の「あずかりたい」の言語は「コイノニア」とあります。これは交わり、つまり教会の交わりのことであり、共に教えを受け、共にパンを裂き(=聖餐)、共に祈る愛の共同体を意味します。では、奉仕とコイノニアがどうつながるのでしょうか。「奉仕の恵みにあずかりたい」つまり奉仕の交わりをしたいとは、兄弟姉妹で仕えあい助け合う共同体を意味すると考えられます。イエスは「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)とおっしゃいました。また「…ご自分を空しくして、しもべの姿をとり…自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8)とあります。イエスは仕えるしもべの姿を実践したのです。教会の中でも人に仕えてもらうのではなく仕えるしもべの姿をとりたいものです。
「喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。」(詩編100:2)とあります。嫌々ながら、強いられて献げ仕えようとするならこの世の奴隷と変わりません。しかし私たちが満ち溢れる喜びで自ら進んで献げ、仕えるしもべとなって歩む人は義の奴隷であり幸せなクリスチャンといえましょう。そのような姿を目指して少しずつ成長してゆきましょう。そうすればキリストの満ち満ちた身丈に成長した信仰者、教会となって行くことでしょう。
≪分かち合いのために≫
- マケドニアの諸教会の兄弟姉妹の姿を見ながら、幸せな信仰者とはどのような人ですか?
- ディアコノス(仕えるしもべ)とは、どのような人でしょうか?
今日の暗唱聖句
「喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。」 (詩編100:2)