2025.10.05
「赦し-自分のため」 マタイの福音書 18章23節-35節 井上圭 伝道師
イエスの教えは多岐にわたりますが、今日は「赦し」について考えてみましょう。
赦しについての記述で代表的な聖句の一つに、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」(マタイ18:21)という問いに対し「七回を七十倍するまでです。」(マタイ18:22)とイエスが答えた記事があります。ペテロは7回でも多いかな、と思いつつも完全数の7をひきあいに出したのでしょう。ところがイエスの答えは7の70倍、つまり無限の赦しを説いています。今日の聖書箇所はこれに続いてイエスがお話しになった内容です。人を赦すことが大切なのはわかりますが、その前提として、自分が赦されていることを自覚すべきことが書かれています。「…まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。」(マタイ18:24)と始まります。一万タラントとは、今のお金で6000万日分の給与であり、返済不可能な金額です。そこで王は彼に「自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。」(マタイ18:25)のです。ところが家来は「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします。」(同26)と返事しました。もし本当に返せるのならもっと早くから返せるはずだったし、少しずつでも返済して誠意を見せるとかすればよかったのです。そもそも彼は返す気持ちがあったのだろうか、と言いたくなる場面でもあります。
ところが驚いたことに「家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。」(マタイ18:27) のです。その理由は「かわいそうに思って」です。この「かわいそうに」という原語を紐解くと、「はらわたがちぎれるほどに辛く苦しい思い」というニュアンスが含まれます。この主君は血も涙もない冷酷な王ではなく、憐れみ深い愛のある王であり、つまるところ、天の父なる神を表し、またイエスを表しているのです。神は到底返済できない罪の借金を抱える私たちを断腸の思いをもって憐れんでくださいました。私たちが正しいからとか、立派な振る舞いや行動をしたからとか、善人だから赦されたわけではありません。ただ神様の憐れみによるのです。
一万タラントの負債を免除された家来は、主君の元から出て行きましたが、次にとった行動が今回の教えのポイントとも言えましょう。「…自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。…彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。」(マタイ18:28‐31)というのです。その家来はもっと大きな負債を免除されたのにも拘らず、自分に百デナリの借りがある仲間を赦さなかったのです。そればかりでなく、借金を返せと詰め寄り、負債を返すまで牢に放り込んでしまいました。理不尽のように思えますが、この家来の姿は私たちの姿ではないかと思うのです。私たちは神からの大きな憐れみによって罪赦されました。十字架は紛れもなく私のためだったのです。
仲間を赦さなかった家来の話を聞いた主君は「悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」(マタイ18:32‐33)と、主君は当然、怒りました。聖句にも「あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。…」(ヤコブ2:13)とあります。その一方で怒りを諫める聖句もあります。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:26-27) 怒りや憎しみ、赦せない思いという感情は、誰でも持つことがあります。しかしそのような感情をずっと持ち続けるなら、悪魔に機会を与えることになるのです。
赦せない思い、怒り、憎しみを十字架の前に下ろしましょう。到底返せない罪の負債をイエスが十字架で背負われ罪の赦しを成し遂げてくださいました。赦しは自分のためであり神の憐れみであることを覚えましょう。
≪分かち合いのために≫
- 主から受けた大きな憐れみをどのように体現していますか?
- 握っている怒りや憎しみ、赦さない心がありますか? 悪魔に足場を与えないため、あなたがすべきことは何だと思いますか?
今日の暗唱聖句
「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。」
(エペソ人への手紙4章26‐27節)
