2025.10.26
「希望の人生」 ルカの福音書7章11節-15節 西田 立美 師
「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。」(Ⅰコリ13:13)と聖書に書かれていますが、今日はこの中の「希望」について考えてゆきましょう。
今日の聖書個所のやもめは夫を亡くした上に頼りにしていた息子まで亡くして悲しみの中にいました。近所の人々はそんなやもめを慰めていました。そこをイエス一行が通られました。イエスは悲しみに暮れるやもめをご覧になって内蔵が痛むほど彼女をあわれみ「泣かなくてもよい」(ルカ7:13)と声をかけられました。それだけなく亡くなった息子に向かって「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」(同14)と言われ彼をよみがえらせて下さいました。イエスは悲しみの中にいる人を慰めるだけでなく、悲しみから立ちあがらせて下さいます。イエスの言葉には死人をよみがえらせる力があり、希望がイエス・キリストにあります。「…闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(マタイ4:16)「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)神は一人一人を愛し希望を備えて下さいます。イエス・キリスト自身が希望であり闇のような心を照らす一筋の希望の光です。イエス・キリストこそ、変わることのない信頼すべきお方です。
イエス・キリストが信頼すべきお方である理由が三つあります。一つ目はイエス・キリストは神の子であるにもかかわらず、人としての姿となって来られ、私たちの罪を贖って下さったからです。イエス・キリストを受け入れることで神と和解し希望が与えられました。この希望は取り去られることはありません。
二つ目は、私たちの先陣を切ってよみがえられた主だからです。「…もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。…しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリ15:17-20)やもめはイエスと個人的に出会った上に息子がよみがえり、死に打ち勝つ事を経験しました。私たちもイエスに出会う事で人生の希望、喜びが体験できます。私たちの肉体は滅んでも、イエスと共に生きる事が出来て神と共に住む事ができる。永遠のいのちが与えられるという希望があります。この希望を持って生きる時には恐れるものは何もありません。
そして三つめは、イエスは今も生きているので、目に見える外なる人(肉体)は衰えても目に見えない内なる人は聖霊によって日々新しくされることです。私たちの中に住まわれる主を思う時に、希望があります。人生には春夏秋冬があります。神は人生の季節に従って相応の恵みを与えてくださいますが、苦難や試練に出会うこともあるでしょう。「…たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど重い永遠の栄光を私たちにもたらすのです。」(Ⅱコリ4:16-17)
神の国に入るまでには私たちには苦難があると聖書は語っています。パウロは「それだけでなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し…練られた品性が希望を生み出す…この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)と言います。信仰を持っても苦難困難は襲ってきます。そんな時私たちの内側におられるイエスに目を向けることが必要です。苦難を通して忍耐が生まれます。そして練られた品性が備わってきます。イエスはそれを通して希望を与える約束をして下さいました。
イエス・キリストを信じると聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれます。それが希望です。この希望で私たちは世を照らす灯台となれるのです。希望を見出すことが出来なかったやもめに「泣かなくてもよい」と声をかけ、息子をよみがえらせました。そのように主は私たちに光を当て、立ち上がれるようにして下さるのです。
≪分かち合いのために≫
- あなたがイエス様を信じ、受け入れたとき、どのような希望があなたの内に湧いてきましたか?
- 今、苦難の中にあるなら、神様はどのようなことを通してあなたを練られているのでしょうか?
今日の暗唱聖句
「それだけなく、苦難さえも喜んでいます。それは苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み
出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わるこ
とはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている
からです。」
(ローマ人への手紙5章3~5節)
