◆主と共に生きる◆信徒の証し
2025.12.07
■黙想エッセイ
クリスチャンが根気強く忍耐しようとする過程で、苦痛という感情と戦うのは自然なことです。しかし、忍耐をもって自分の十字架を耐え忍ぶことは、悲しみという感情を完全に排除するという意味ではありません。ギリシャ哲学の一派であるストア派の学者たちは、人間性を完全に脱ぎ捨て、辛い時も楽しい時も感情の変化が全くない人、石のように何も感じない人を志向しました。
しかし、忍耐は、無感覚と同じものではありません。感情を表さない人が勇敢ですばらしい信仰者であるという考えは、人間的なものです。聖書は、辛い状況に苦しみながらも最後まで信仰を捨てない人、嘆きながらも霊的な喜びに満ち、不安にさいなまれながらも神様の慰めを受けて平常心を保つ人を、忍耐の人として称賛しています。
私たちには、辛い状況を回避したいという願いがあります。しかし、神様を愛するなら、辛くても神様のみこころに従うために努力できます。もちろん、逆境に立たされれば苦しみます。逆境の鋭い痛みを感じます。病気になれば、うめき、あがき、健康を求めます。貧しさに追われると、悲しみと悩みが襲ってきます。恥辱と軽蔑と不義の前では、たましいが押しつぶされるような苦痛を感じます。愛する人の死の前では涙があふれます。しかし、私たちの結論はいつも、そのすべてが主のみこころであるということでなければなりません。悲痛によってうめき、涙が止まらない時も、みこころに従うという深い愛をもって苦難に耐え忍ばなければなりません。
