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2024.10.13

「主を喜ばせる真実な愛とは」

 

私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちの ところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:3)

 

ホセアは北イスラエルで活躍した預言者でした。そして彼は神の赦しの愛を説く預言者でもあります。彼の人生そのものが主の赦しの生き方を実践するものでした。ホセアはゴメルという女性と結婚し妻
に迎えます。しかしゴメルが不貞による姦淫の罪を犯します。その後も妻ゴメルは身勝手な生き方をし、子ども3人と夫ホセアを捨てて、放蕩の生活をしていきました。しかし主はホセアに対し、姦淫している罪を愛しなさいと命じられたのです。彼は主の言葉に従い、いつ戻って来るとも分からない妻の帰りを待ちつつ、子どもたちを育てるのです。
夫ホセアと妻ゴメルの夫婦関係は、主と北イスラエルの関係をそのまま表わしていました。妻であるイスラエルは夫である主に対し、自己中心と偶像に仕える生き方によって霊的姦淫の罪を犯していたからです。
しかしイスラエルは罪の結果、主によって引き裂かれ、打たれる体験を通らされました。主が彼らを戒められたのです。その戒めは主の愛の鞭であり、彼らが再び立ち返るよう導いておられるのです。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」(ホセア6:1)。決して夫である主は引き裂き、打って見捨てるようなお方ではなく、彼らを癒やし包んでくださるお方です。そして、彼らが再び「御前に生きる」(ホセア6:2)ように導かれるのです。
ホセア6:1の「立ち返る」という言葉は「回復する」という意味があります。つまり、イスラエルが主に立ち返る時に彼らは回復されるのです。再びアイデンティティが回復され、夫婦関係が回復され、霊的祝福といのちが回復されます。さらにホセア書6:3で主に立ち返るとはどういうことかが語られています。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:3) 主に立ち返るとは、“主を知ることを切に追い求めるライフスタイル”です。「知る」という言葉は「人格的・体験的に知る」ということです。何となく遠い存在として知っているレベルではなく、最も身近な存在として日々関わり続け、会話し共に時間を過ごすことによって相手を知るレベルと言えます。そのような主と親しい関係を築き、主を知ることを切に追い求めることこそ、主に立ち返ったライフスタイルと言えます。そのような歩みをする人に、「主は暁のように確かに現れ」てくださいます。暁とは夜明け、曙であり、薄闇からいよいよ朝日が昇る夜明けのように主の御顔の光をもってご自身を現わしてくださいます。また「大雨のように」、恵みの雨をもって主はその人のところに来られるのです。そして主がその人のもとに訪れるなら、「地を潤す」ようにその人は潤され満たされていきます。
しかし北イスラエルは主に立ち返ったように見えて、「朝もやのように、朝早く消え去る露のよう」に再び背を向ける生き方をしてしまうのです。それは決して主への真実な愛ではありません。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」(ホセア6:6) 主が喜ばれるのは真実の愛です。そしてここで言っている真実の愛とは、主に立ち返り、主を知ることを切に追い求めるライフスタイルに生きる事なのです。その生き方こそが主を喜ばせ、真実の愛だといえます。私たちと主との関係も夫婦関係です。主は私たちを真実に愛してくださっています。十字架を通してそのことが示されました。愛する兄弟姉妹の皆さん、その愛に私たち一人ひとりがどのように答えるのか、それが問われています。

 

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