2024.09.29
「近代宣教の父-ウィリアム・ケアリー」
「また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」(エペソ1:19)
インド宣教に生涯をささげたウィリアム・ケアリー(1961年-1834年)という人がいます。彼は近代宣教の父と呼ばれています。彼はイギリスの貧しい家に生まれ、高校卒業後には生活のために靴を作る仕事をしていました。幼少期から語学の才があり、独学でラテン語、ヘブル語、ギリシャ語、また他の言語も習得するようになりました。24歳で靴職人となり、昼は靴を作る仕事とパートタイムの教師の仕事をし、聖日には信徒説教者として教会に仕えました。28歳の時、キャプテン・クックの航海記を読
んで宣教の火がつき、東洋に福音を伝えるキリストの証人としての使命に目覚めました。
1793年、ケアリーはインドのコルカタで伝道するため船で密航しました。当時、東インド会社が宣教師たちの入国を非常に嫌っていて、現地人の立場に立って働く宣教師たちは、植民政府の利益追求の方針に反するものだったからです。インド宣教の始まりは苦難の連続でした。ケアリーと家族は早々に経済的貧困により、生活の糧を工場で働きながらしのぎ、伝道をスタートさせました。その後、妻と子供が赤痢にかかり、妻は病んでしまいます。さらに彼の家族に悲劇が起こります。インドの地で5歳の息子を亡くしてしまうのです。妻は発狂し精神の異常を来してしまいました。また伝道しても最初の7年間は現地インド人の誰も救われませんでした。ケアリーはインドで重い十字架を背負わされますが、苦難の中にあっても彼の信仰は揺らぎませんでした。1812年にはケアリーが心血注いだ聖書翻訳の印刷工場が火事になり、大切な聖書原稿はすべて燃えてしまいました。ケアリーは嘆きながらも、このことが神様の摂理の中にあることを受け入れます。不幸中の幸いというべきか、印刷機や文字盤は再び使用することができ、火事から1か月後に近くの倉庫で印刷を再開することができました。火事のニュースがイギリスや海外に知らされ、多くの人々の祈りと献金がささげられ、新しい印刷機を買うことができました。火事から5か月が経ち、火事の前よりも倍の印刷機で聖書を印刷できるようになったことを神様に感謝しました。彼はインドの地を愛し、現地のベンガル語をはじめ、サンスクリット語、パンジャビ語などを習得し、聖書翻訳、文書ミニストリー、社会改革、救済、教育、現地指導者の養育など、34年間その地域に滞在し、膨大な働きをしました。ケアリーは、夫が死んだら妻を一緒に火葬するサティという制度と、幼児殺害のようなインドの悪習の撤廃にも貢献したと言われます。
ケアリーは、働きの間、一度も故国に帰ることなく、インドの地で骨を埋めました。彼が語った有名な言葉に、「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ」という言葉があります。彼の生涯は様々な苦難、失望や落胆、苦しみや痛みを通らされました。その中でもがき苦しみながらも神様に拠り頼み、へりくだりと忍耐をもって神と人に仕えた生涯でした。そして神様に信頼し、使命に生きた彼の生涯を通して神の偉大な働きの御業がインドの地に起こったのです。
「また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」(エペソ1:19)
私たちの人生にも神様は使命を持っておられます。そのことを神様が成し遂げてくださいます。苦難を通らされることがあっても、忍耐が練られた品性を生み、練られた品性が希望を生み出します。神の御手にへりくだり神に信頼して歩み続けるなら、神の偉大な御業を皆さんの人生に起こしてくださると信じます。