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2025.08.31

「神に応答しよう」

 

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。  …すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないに よって祝福されます。」 (ヤコブの手紙1:22-25)

 

私はミズーリ州のセントルイスの神学校に行っていたときのことでした。ちょうど神学校の隣に熱狂的な教会があるというので一度尋ねようと友人と教会案内を見て午前10時からの礼拝に参加しました。その教会は全員が黒人のクリスチャンばかりで、肌の色が違うのは私たち日本人の二人だけで妙に浮き立ってしまいました。それでも皆さんから大歓迎を受けて一緒に礼拝に参加しました。
日本での礼拝の感覚では、特別集会や讃美集会を除いて、長く賛美しても30分か40分くらいです。しかしその教会は1時間経ってもなかなか賛美が終わりません。讃美が途切れるとお祈りが始まるのです。そしてまた賛美。賛美が途切れて今度は牧師の一人が立ってみことばを語り始めました。これがメッセージかと思ったのですが、それは次ぎの讃美をささげるためのお勧めだったのです。説教が始まったのはお昼の1時を過ぎてからでした。そして、そのメッセージは1時間くらいでした。ところがその説教の中で度々会衆に向かって、牧師が「アーメンですか?」とか「アーメン?」と尋ねるのです。その問いかけが耳についてその数の多さもあって少々閉口してしまいました。しかし、時間が経つにつれて、「アーメン」の意味を考え始めていました。イエスは大切な教えをされるときには必ず「まことに、まことにあなたがたにつげます」と言われました。「このまことにまことに」が「アーメン、アーメン」と言うことばなのです。私たちが応答する「アーメン」は「その通りです」とか「それは真実です」とか言うような意味でもちいますが,それはとりもなおさず,神様の御言葉への応答です。
牧師の問いかける声に会衆の兄弟姉妹たちが喜んで応答しているのを見て、何か信仰の本質の一面を見た思いがいたしました。
すなわち、信仰は神の語りかけへの「応答」であるという事です。もちろん形式的にアーメンと応答するのでは意味がありませんが,毎日読む御言葉を聞くだけ、読むだけのものになってしまわないようにしたいものです。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。・・・ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブの手紙1:22-25)

毎週の礼拝のメッセージをあなたはどのように聴いておられますか?教会から帰る時には語られたメッセージを忘れてしまうようなことのないように、御言葉に応答する訓練をいたしましょう。
日曜日から始まる一週間は御言葉に応答して生きる一週間です。生きた御言葉にどのように応答し行動に移す一週間かを考え、具体的に実践していくものとなろうではありませんか。そのときにこそ御言葉は生きて働くと言えるのです。ちなみにその黒人の教会の礼拝が終わったのは午後4時でした。もちろんお昼を食べる時間もありませんでした。しかし、御言葉をしっかりと食べた貴重な礼拝となりました。
(プレイバック週報 2003年11月2日 『牧師館』より 西田育生師)

 

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