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第17号 2009 年夏号

04

心は渇いていませんか?

 

梅雨も明け、真夏の日差しが照りつけています。高校野球の応援で熱中症になる人が出るほどです。知らず知らずのうちに体から水分が蒸発してしまっているので十分な水分補給と休養が必要です。
体の渇きは水分補給すればいいのですが、厄介なのは心の渇きです。カウンセリングの現場にいると多くの人たちが心の渇きを訴えているかが分ります。心の渇きはその人の他の人との関わりや人生に対する態度に影響を及ぼしてくるのです。
『心の渇き』とは一言で言えば『愛されることへの渇望』と言えるのではない でしょうか。何と多くの人たちが自分は愛されていないと思っていることでしょう。 それはしばしば幼少期にまでさかのぼります。両親から十分に愛されていないと 感じてしまい、愛の欠乏症に陥っているのです。絶えず愛される確かさを求めて、 さ迷うことになるのです。親から見ればこれほど愛しているのにと思うのですが、 その思いとは裏腹に子供は愛されていないと感じ取ってしまう。だから複雑なのです。
ついつい人は自分のことはどう思っているかが気になり、人の評価に振り回されて しまい疲れてしまうことが繰り返されてしまうのです。
サマリアという町に住む一人の女性の話が聖書の中に出てきます。彼女は離婚を繰り返し、イエスに出会ったときには6番目の男性と生活を共にしてしました。愛の確かさを求め、次々と男性を代えてはみましたが、彼女の期待するような愛情を誰も与えてはくれませんでした。周りからは白い目で見られ、汚れた女として見下されていたのです。
ちょうど彼女が井戸に水を汲みに出て来た時、イエスは彼女の心の渇望を知って話しかけられました。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
井戸の水は汲んで飲んだとしてもまた渇きます。それはちょうど彼女の愛に渇いた人生の象徴でした。しかし、変わらない命の水を与えてくださるお方が彼女の目の前に立っておられたのです。そのお方がイエスでした。
結局、人にその愛情の充足を求めても期待通りのものを得ることは難しいものです。しかし、イエスは私たちの渇きを豊かに満たすことが出来るのです。イエスは私たちにその愛を示すためにこの世に来られ、十字架で命を捧げて愛を全うしてくださったのです。
もしあなたが渇いているなら、祈ってみてください。「神様、私は愛に飢え渇いています。私にあなたの愛を注いでください。私を助けてください!」と。
神様はあなたの渇いた心に溢れるばかりの愛を注いでくださるでしょう。

(牧師 西田育生)

03

「樹木限界線で育った木」

 

  バイオリンを作るある職人がいました。彼は最上のバイオリンを作るために、質のいい木を探そうとあらゆる力を尽くしました。最良の国産の木を選び、また良質の外国産の木を取り寄せたりもしました。しかし、すべての努力にもかかわらず、彼は自分の望むバイオリンを作ることができませんでした。
ある日、彼は樹木境界線で苦労して育った木を発見しました。
その木は節が多く、ねじれていました。冬の厳しい風と山頂から吹き降ろす荒涼とした風雨に打たれて育ったため、形はまっすぐではありませんが、言葉に尽くせないほど頑丈でした。彼はその木でバイオリンを作りました。そのバイオリンは、それまで彼が作ったどんなバイオリンよりもすばらしい音を奏でました。
私たちの中にも、一種の樹木境界線に生きている人、つまり困難な環境の中で厳しい試練と苦しみを経験しながら生きている人がいます。神は試練と苦しみのただ中においても美しい人生を創造されます。
地面の中の炭素に、摂氏550度で1平方インチあたり750万トンの圧力が加われば、美しいダイヤモンドになります。
私たちも試練と苦しみを経験するとき、神の栄光を現し、福音を奏でる美しい人になることができるのです。溶鉱炉のような人生を通り過ぎれば、美しくまばゆい存在へと生まれ変わることができるのです。

危機/リックジェル

02

ゴスペルとわたし

 

わたしがゴスペルミュージックに初めて出会ったのはアメリカ留学時代のホームステイ先の家族とクリスマスコンサートに行った時のことでした。当時まだクリスチャンではありませんでしたがコンサートのオープニングで聞いたその音楽に何か魂を揺さぶられた思いでした。
その後日本で洗礼を受けてクリスチャンになった後、クリスマスコンサートを久しぶりに聞きに行きました。何年も前に本場アメリカでゴスペルを聞いた時の感動がよみがえってきました。この音楽を自分も歌ってみたいと思い即座に教会のゴスペルグループに入りました。
ゴスペルを歌っているとその歌詞の内容がそっくり聖書の言葉そのものであったりしますので万軍の主がわたしと共にいつもいて下さり、戦ってくれているんだと力強い励ましを受けたりします。恐れ、不安から解放されます。

My Life Is In Your Hands
心配しないで、恐れないで。悩みはずっと続かないから。
イエスという名の友達がいる。あなたの涙をぬぐってくれる。
おお、きっとできる、立ち続けられる。たとえ何が起ころうとも、主の手の中で。
心配しないで、恐れないで。朝日とともによろこびが来る。
あなたの心が傷ついたなら、その手をあげて言ってごらん。
おお、きっとできる、立ち続けられる。たとえ何が起ころうとも、主の手の中で。
主が一緒なら受け入れられる。たとえ何が起ころうとも、主の手の中で。
苦しみの中、立てない時も。一人きりだと思える時も。忘れないでいて主イエスのことを。
その手をあげて言ってごらん。
おお、きっとできる、立ち続けられる。たとえ何が起ころうとも、主の手の中で。
主が一緒なら受け入れられる。たとえ何が起ころうとも、主の手の中で。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

わたしの人生は神様、あなたの手の中にある。いっさいを委ねるとき自分の周りの状況は嵐のような時であっても、自分の内側には何とも言えない平安があり、揺るがない自分があることを発見できる、そんなことを教えてくれるゴスペルをこれからも歌い続けていきたいと思います。  T・I

 

01

偉大な科学者 メンデル

 

偉大な科学者メンデルの名前は、誰でも一度くらいは聞いたことがあるだろう。遺伝子学の祖とよばれるグレゴール・メンデルは十九世紀半ばに、あの有名な遺伝の法則を発見した。研究成果が発表されてから百四十年たった今でも、メンデルの名前が頭に冠せられている「メンデルの遺伝の法則」の骨子は崩れていない。
メンデルはエンドウの形状の変化に興味を持ち、一八五六年から八年間にわたって、修道院の庭でエンドウの掛け合わせ実験をして、親エンドウの形質が子どもや孫に、どのように伝わっていくかを研究した。純糸を取り出し、花粉が混ざらないように周到な研究をするのは、情熱と忍耐と明晰な頭脳が必要であった。
さて、メンデルの名前も業績も良く知っている人でも、彼がキリスト教の修道士であり、修道院の庭で綿密な実験計画を立てて、科学研究を行ったことに目を止める人は多くはない。メンデルはオーストリアのキリスト教の修道士だったが、彼の所属した修道院には哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などがいて、学術的な研究や教育が盛んに行われていた。
現在の日本では、聖書と科学とは矛盾するものであると頭から決めてしまっている気配があるが、メンデルは、神様に背く行為として科学研究を行ったわけではない。それどころか、歴史的に知的作業の場、学問の場はキリスト教会だったわけであり、メンデルはそのような環境で科学する能力を鍛錬されたのである。このように、近代科学の夜明けは、キリスト教会で始まったのである。
―いのちのことば社 「ダーウィン・メガネをはずしてみたら」

理学博士 安藤和子 著
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