閉じる

NO.021  2011.02.28

「神の国の価値観」(1) - LORDSHIP(主の主権)の確立 -

 

主のみ名を賛美します。
寒さの厳しかった冬も終わり、早春の季節となりました。愛する兄弟姉妹はいかがお過ごしでしょうか。各地ではもう卒業式が行なわれ始めました。若者にとっては社会人への準備の時でもあります。プロ野球もキャンプが終わり、開幕に向けたオープン戦が各地で始まっています。
本番に備えて準備をして、整えて、スタートする。この繰り返しが私たちの人生でもあります。神様が私たち一人一人に備えられた道があります。その主の道を兄弟姉妹と共に歩むことが出来ますようにと心よりお祈りをいたします。
リビア北東部ムサイドで、革命勝利を訴え両手を上げるリビア人男性ら=22日夜(共同)さて、チュニジアで発生した革命(チュニジアの国花ジャスミンにちなんでジャスミン革命と呼ばれる)から3ヶ月が経過しました。民主化の勢いは今やエジプト、リビア、ヨルダン、バーレーン、アルジェリア、イエメン、イランなどのアラブ諸国に飛び火しています。チュニジアに続いてエジプトでは36年続いたムバラク政権が倒れました。リビアでもカダフィ独裁政権に対して反政府軍が侵攻を強め、政権が窮地に立たされています。また民主化を求めるデモは、中国やその他の地域をも触発し、至る所で民主化運動が活発化する傾向にあります。ドミノ現象のように一気にその流れが世界の独裁政権を揺り動かしています。少数の権力者による統治と極端な富の偏り、そして大多数の貧しい民衆という二重構造は限界に来たのです。チュニジアで起こったあっけない政権崩壊は自由を求める人々のエネルギーの起爆剤となり、今まさに大きなうねりとなって世界を駆け巡っています。力による支配がどれほど強固のように思えても、歴史はそれが永遠に続かない事を証明しています。
国が正しく治められ、人権が尊重される民主的な国家をつくるリーダーが求められているのです。私腹を肥やし民を利用するような国家はいずれ立ち行かなくなるのです。
それは国家だけではありません。私たちの人生も同じです。誰が自分の人生を統制し導いているかが問題です。自分自身でしょうか。他の人でしょうか。神でしょうか。一番確かだと思っている自分自身が、実は一番弱く心許ない存在であることを私たち自身が知っています。他の人に振り回されて自分の人生を生きられない葛藤を覚えることもしばしばです。
私たちは神によってかけがえのない尊い神の作品として造られたと聖書は創世記の第1章で語っています。ですから、祝福に満ちた解放された人生を歩むためには、私たちを造られた神のオリジナルプランに帰ることが必要です。それこそが人間性回復の第一歩なのです。
神が願っておられる身につけるべき生き方とは先ず第1にLORDSHIP(主の主権に生きる)第2はSERVANTSHIP(僕として生きる)、第3はSONSHIP(神の子として生きる)、ということです。この3つの価値観を身につけるときに私たちはキリストの弟子となり、この世にあって世の光、地の塩となることが出来るのです。今回は第1のLORDSHIP(主の主権に生きる)ことの大切さを認識し、身につけるようにしたいと思います。


キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 (ピリピ人への手紙2章6節~11節)


Ⅰ主イエスキリストのなされた御業
 私たちが主と仰ぐキリストはどのような歩みをなされたのでしょうか。聖書は「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」と証言しています。キリストは神の立場に固執されないで、ご自分を空しくして私たちと同じ人となられたのです。神としての特権も立場も権力も支配も全て捨てて、私たちと同じ人となられたのです。その目的は唯一、罪の奴隷となっている私たちを救うためです。私たちが神の愛の実体を刻めるように、私たちと交わりを持つために、自らを低くされ、この世に来てくださいました。
それだけではありません。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあるように、罪をほかにして私たちと同じように空腹や渇きを経験されました。人の痛みや苦しみ、嘆きや怒り、喜びや悲しみも私たちと同じように味わわれたのです。さらにはご自分を十字架につけて、私たちの罪の身代わりとなられ、信じる者に救いの道を開かれたのです。
このようなお方を私たちは主と仰ぎ、信じているのだと言うことを覚えたいと思います。もし、このキリストの犠牲がなかったら私たちの救いはなかったし、今与えられている罪の赦しと解放も得られなかったのです。絶えず罪の責め苦に苦しみ、今でも罪の中に沈んでいたことでしょう。しかし、キリストがその罪の縄目からご自分の命と引き替えに私たちを解放してくださいました。このキリストを私たちは主と仰げる幸いを感謝しようではありませんか。


Ⅱ主イエスキリストこそ私たちのモデル
 このキリストの歩みは私たちの生き方のモデルであり模範でもあります。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(Ⅰペテロ2:21)とあるとおりです。キリストが歩まれたように私たちも歩む。それが主イエスを中心にして生きると言うことです。神は私たちを無理強いするような方ではありません。訳もわからず頭ごなしに生きろと言われているのでもありません。神の愛を受け、その愛に応答したい。そのような生き方をしたいという願いが起こってくるのです。伝道者パウロも「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:9-10)と語ってキリストと一体になりたいと切に願ったのでした。
 人は触れる者に似ると言われます。夫婦も長年連れ添えばどこか似通って来るものです。考え方や仕草、価値観が絶えず影響し合って似通ってきます。私が導かれた教会は本当に恵みが豊かでした。導いて下さった牧師先生が「牧師はいいぞ。牧師は最高の仕事だ。」といつも語っておられました。いつしか私も将来は牧師になりたいと願うようになり、祈るようになっていました。確かに神様の導きがあったのですが、しかし同時に身近に触れる牧師先生の生き方に大きな感化を受けました。いつの間にか祈り方や身のこなし方、しゃべり方まで似てくるようになるのです。ある時、知り合いの信徒の方から『声や話し方が牧師に似ているね』と言われて、無意識のうちに牧師先生のしゃべり方や祈り方が似ていたことに改めて気付かされました。
 同様にキリストと交わり、キリストの生き方に触れ、キリストの言葉にあずかるうちに、キリストが生きられたように生きたいと思うようになるのです。キリストこそ私たちのモデルであり、生き方の模範なのです。御言葉を心の内に貯え、祈りを通してキリストの生き方を自らの生き方としようではありませんか。


Ⅲ主イエスキリストの主権を確立する
 キリストを信じる以前の生き方はこの世の価値観に影響を受け、それに従って生きてきました。ですからキリストを主と信じて生きるようになってから、すぐに聖書の価値観が身につくわけではありません。それには時間がかかります。信仰は成長のプロセスです。すぐに聖書的な価値観が身につかないからと言って自分を卑下する必要はありませんし、失望することはありません。何十年と自分の価値観で生きてきたのですから、聖書の価値観を身につけるには時間をしっかりかけて取り組むという心構えが大切です。人は変らないのではなく、必ず変るのです。聖霊が働けば必ず変えられるのです。それを信じて歩むのが神の国の価値観です。この世の現実や常識、思い込み、それに支配されて生きてきた生き方から、神の国の生き方、キリストを主として生きる生き方をすり込んでいくようにいたしましょう。
 第1にそれは毎日の小さな決断を積み重ねていくことです。私たちは選択と決断で人生を選び取ることが出来るのです。その選択の基準は聖書です。主はどのように行動することを願っておられるのであろうかと祈りの中で、決断していくのです。そのためには聖書の生き方を身につける一歩を踏み出していかなければなりません。聖書を読む決意をするのです。たとえ一章でも、1節でも良い。とにかく聖書を開く癖をつけましょう。祈る事もそうです。祈りのメモ帳を作るのも良いでしょう。祈りの場所を確保するのも良いかも知れません。賛美歌を流して祈りを助ける工夫も役立つでしょう。神様は私たちに様々なアイデアや知恵を与えて下さいます。
 ある牧師先生に年配の信徒の方が「私は物忘れが激しくて、すぐ忘れるのです。私の頭はザルのようで、すぐ御言葉を読んでも抜けていくのです。」と言われたそうです。すると先生が「大丈夫。ザルを上げようとしないで、ずっと聖書の中につけておくことですよ」と返されたとのこと。これも知恵です。覚えようと意識過剰になりすぎると嫌気がさすかも知れません。でもとにかく、触れ続け、読み続けることを第1にしようとすると力が抜けて楽に読めるようになります。触れ続けるのです。そのうちにキリストの姿に似るように変えられてくるのです。(Ⅱコリント3:18)
あるときはこの世の生き方に流されたり、あるときは聖書の生き方に従ったりと揺れ動くことがあるでしょう。片足づつそれぞれの生き方においていると結局どっち着かずになってしまい定りのない生き方をするようになってしまいます。時に決断には痛みが伴います。犠牲を払わなければならないこともあります。しかし、キリストがそうであったように、その決断の痛みの只中でこそ主の主権に従うことを学び生きる事を体得していくのです。恐れないで大胆に主に従ってまいりましょう。

いつもお祈りとご支援を心より感謝をいたします。私は先月、韓国、釜山で開催された「二つの翼国際カンファレンス」に参加し、多くの恵みをいただきました。教会がキリストの願われる健康な教会として飛び立つために、「御言葉と聖霊」という二つの翼をいただき、兄弟姉妹と共に前進していきたいと願っております。
また、5月3日(火)~5日(木)の3日間恒例の「信仰成長バイブルフェロシップ」を開催いたします。詳細は案内、申込用紙をご覧ください。今回は講師に大津バプテスト教会の浜崎英一牧師先生をお迎えして、伊豆の天城山荘にて開催をいたします。毎年大いに恵まれるこのフェロシップに是非、兄弟姉妹の参加をお勧めいたします。ふるってお申し込みください!
教会のライブ礼拝もユーストリームを通して見る事が出来るようになりました。東京ホープチャペルのホームページからアクセスすることが出来ますので、ご覧になってください。
愛する兄弟姉妹の歩みの上に、溢れるばかりの豊かな祝福がありますようにお祈り申し上げます。主に感謝しつつ。

キリストのしもべ       西田育生

 

 
閉じる