「測り知れない宝の力」
主のみ名を賛美します。
晩秋を迎えて、もう町はクリスマス一色です。店先のクリスマスリースやツリー、また夜は街路樹にイルミネーションが輝いています。教会よりも商店街の方がクリスマスを先取りしているかのようです。
私たちの教会も感謝祭から、一挙にクリスマスの飾り付けに転換中といったところです。愛する兄弟姉妹の所はいかがでしょうか。
しかし、同時に忘れてならないことはこのクリスマスの意味です。もし、外側だけの飾り付けや華やかさにだけに心が奪われてしまうなら、本当のクリスマスの意味が色あせてしまいます。キリストの教会は声を大にして、救い主イエスキリストが私たちを罪から救うために来られたことを宣言し、その驚くべき恵みと喜びの訪れを告げ知らさなければなりません。その意味でもこのクリスマスは、福音を語るには絶好の機会です。キリストの福音の恵みをただ享受するだけではなく、周りの方々にキリストの愛と救いを証しする時として共に用いられてまいりましょう。
さて、アドベントを迎えようとしていた矢先、北朝鮮が韓国の延坪島を砲撃したと言うニュースが飛び込んできました。韓国側には犠牲者も出て、朝鮮半島に緊張が走っています。国際社会もこの事件の処理と対応を巡って慌ただしさを増しています。まだ、第2波、第3波の砲撃の可能性もあって、交戦状態に陥る危険性もはらんできました。日本も中国の尖閣諸島を巡る領域の主張に苦慮していますが、北朝鮮も韓国に対して自国の境界線を主張し、朝鮮戦争の時に国連で決めた境界を受け入れてはいません。北朝鮮による今回の韓国に対する砲撃は国際社会のルールを無視した暴挙と言わざるを得ません。何とか平和裏に事態が打開され沈静化して行くことを願うばかりです。
国と国の争い、民族と民族の争いは世界各地で勃発していて、終末的様相を呈しています。そこにあるのは、罪に陥った人間のエゴとどん欲さがもととなっているのではないでしょうか。自国の境界を少しでも拡大しようという思惑で他国を侵略しようとしたり、身近な所でも隣りの家との地境を巡って争っている人達も大勢います。人の欲望はとどまるところを知りません。
私たち自身はどうでしょうか。私たちも所有欲の奴隷になってはいないでしょうか。物に対する執着や所有にばかり気を取られてしまうと、一番大切な物を見失ってしまう可能性があるので気をつけなければなりません。
私たちはクリスマスを迎えるに当たり、自分自身をじっくりと見つめる時が備えられていることを覚えたいと思います。イエスキリストの誕生を祝うこのクリスマスは私たちに、人生において何が一番大切なものかを教えてくれているのではないかと思います。たとえ何も持たなくても、最高の贈り物であるイエスキリストだけは、しっかりと確実に受け取る時としたいと思います。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。・・・ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Ⅱコリント4:7-18)
Ⅰ 宝の力を知る
私たちにとって一番大切な宝、それはイエスキリストです。パウロは「この宝を土の器の中に入れているのです。」と告白しています。土の器はもちろん私たち自身のことです。宝と土の器、あまりに違うこの二つの存在が一つになっている。何という神様の配剤であり、ご計画でしょうか。
自分自身をみれば、本当に土の器であることを痛感させられます。土の器は素焼きの器であり、壊れやすく、もろい存在です。わたしたちはしばしば、欠けたところやもろさにばかり目がいってしまい、何と自分は弱くだめなのだろうと嘆きたくなってしまいます。でも神様はあえてそのような土の器である私たちを選んで宝なるキリストを送って下さったのです。
土の器だけなら、本当にがらくた同然に壊れて捨て去られる運命をたどることになります。しかし、その器の中に宝が入っている。そうしてその宝は測り知れない力を発揮して、土の器からその栄光の輝きを放って下さるのです。そう考えたなら、むしろ土の器であることを感謝しなければなりません。なぜなら、素焼きの器だからこそ、内側の輝きが外に向かって良く出るからです。もし、立派なコーティングされた美しい器なら、内なる宝の素晴らしさが、充分に輝きでないからです。だから私たちは土の器でなければならないし、土の器である私たちを神は選んで生まれて下さるのです。それが恵みなのです。
測り知れない力は「四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」とパウロに言わしめるほどの威力を発揮するのです。だから私たちは自分を誇る必要はありません。誇るとするなら自分の内なる宝なるキリストを誇るのであり、自分自身について言うならば、パウロのように「キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)ということになるのです。
このクリスマスを境に、自分の欠けや弱さを見て嘆くのはもうやめたいと思います。うちに住んでおられるキリストに目を向けこのキリストの力が最大限に発揮されるように、私たちはキリストの力を解き放つ者となりたいと思います。
Ⅱ勇気を持って生きる。
この宝であるキリストがうちに住み、その輝きを増して下さるようになると、私たちの生き方やとらえ方が変わってきます。先ず「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあるように、内なる人が新しくされていく事を実感するようになります。多くの人は外側を気にする生き方をしています。肉体は衰えますから、体にしわやたるみが出てきます。白髪も増えるし、頭も薄くなります。それを何とかカバーしようと、見栄えを良くするために様々な工夫をしいます。そのために人は努力を惜しみません。しかし、内なる人が新しくされるという視点で生き始めると、希望が生まれます。外の衰えに反比例して内なる人が新しくされる。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)というように、生きる意欲と力が与えられてくるのです。
また、物事のとらえ方も変わります。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」とあるように、私達が直面する患難が栄光をもたらされるために用いられる事を見出すようになるのです。誰しも患難は避けたいし、できれば逃れたいものでしょう。しかし、その患難が豊かな栄光をもたらさせるようになると言うのです。そのように思えるようになると患難も軽い患難と捉えることができるようになり、それがもたらす栄光は重い永遠の栄光と思えるようになってくるのです。
先日アメリカの教会で起こった出来事を聞く機会がありました。ある教会が突然火災にあって全焼してしまったそうです。牧師を始め信徒の兄弟姉妹たちは呆然とその焼け跡に立ち尽くしました。大切な教会堂を失い、長年親しまれてきたオルガンや貴重な講壇も燃えてしまいました。しかしその失意の中から彼らは祈り、再建を目指していきました。会堂がありませんから、先ず彼らは礼拝場所を借りました。しかし楽器がありません。そこで若者が持っているキーボードやエレキギター、それに簡単な電子ドラムなどを持ってきて弾き始めました。すると今までの礼拝とは違う賛美や若者が好むワーシップが取り入れられるようになり、若者が教会に新しく来るようになりました。また奉仕をする若者が用いられ、奉仕の枠が増えることになりました。さらには長いすが燃えてしまいましたから、今度はパイプイスを使いましたが、パイプイスは自由に位置を変えることができたので、半円型の形式にイスを並べました。するとお互いの顔を見ることができるようになり、親密度が高まりました。また借りた場所は狭かったので、礼拝を2回するようになり礼拝の回数が増えました。また講壇もありませんから、牧師が自由に動きながらメッセージをするようになり、フレッシュな雰囲気で礼拝ができるようになりました。さらには皆が教会の危機を何とかしようと目覚めて伝道し奉仕をするようになったので、教会が生き生きとするようになり、喜びと恵みに溢れた共同体となっていきました。やがて教会堂が再び与えられましたが、会堂がないときに培った新しい礼拝スタイルや教会の奉仕が生み出され、教会全体が生まれ変わった体質に変化したというのです。
そうです。神様は試練を通して、新しい栄光へのドアを開いて下さるのです。何という恵みでしょう。どうか、あなたのうちにもたらされる重い永遠の栄光があること思って勇気を持って前進いたしましょう。
Ⅲ永遠なるキリストにこそ目を注ぐ。
私達が目にするもの、それは永遠に続きません。どんなに栄えていても、どんなに素晴らしく思えても目にする者はやがて朽ちていき、滅んでいくのです。
しかし、目には見えませんが、キリストは永遠に変わることがありません。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)とあるとおりです。ですからパウロが言うように目に見えるものにではなく、目に見えないキリストに私たちの目をしっかりとむけ続けて生きる者となりましょう。このクリスマスこそ、あなたの目をしっかりとキリストに向ける時なのです。
いつも兄弟姉妹のお祈りとご支援に心から感謝をいたします。今年も後1ヶ月です。クリスマスに向けて心を整え、キリストを中心としたクリスマスを迎えられますように。この一年本当にお祈り下さり、支えて下さいましたことを心より感謝を申し上げます。兄弟姉妹の上にも主の圧倒的な祝福と恵みが御座いますようにお祈りしています。祈りに答えてくださる主に心より感謝しつつ。
キリストのしもべ 西田育生