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NO.015  2010.07.31

「愛を解き放つ教会」

 

主のみ名を賛美します。
毎日うだるような暑さが続いていますが、愛する兄弟姉妹はお変わりないでしょうか。体調管理も十分留意され、神様の守りと支えがありますようお祈りをいたします。
先日もひきこもりの若者が70万人にのぼることが新聞で報告されていました。また、その予備群が155万人いるとのこと。就職活動もままならず、将来を見通せない人やいじめをうけた若者など、人生をどう生きていけばよいのか迷ったり苦しんだりしている人達が沢山おられるのです。また、ストレス社会と言われる現代ですが、うつ病も今や日本人にとって国民病であると言われているほどです。
そしてこれら問題の殆どが人と人との関係に由来するものであることに気づかされます。親子関係や学校、会社、隣近所などの人間関係のもつれで苦しんでいるのです。人生には困難はつきものです。それとどう向き合い、乗り越えていくか。また、試練に向き合う力や対処する仕方をどのように養い培っていくかは大きな課題です。

 

関係の回復のための一つのキーワード、それは「愛」です。いつの時代もそうですが、特に現代は愛に飢え渇いています。愛を土台とした関係が築き上げることが必要不可欠ではないでしょうか。しかし、その愛のモデルをどこで見出すことが出来るでしょうか。
キリスト者は神の愛をいただき,愛に生きる者とされた存在です。それを自分だけの者とするのではなく、私たちの住むこの社会にあって、世の光、地の塩として生かされていることを覚えたいと思います。
その意味からも現代社会の実情に無関心ではあってはならないのです。私たちで出来るところから、神の愛を伝え実践する者とさせていただきたいと願います。

 

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。
女はそのままそこにいた。 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいま
すか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
(ヨハネの福音書8:7-11)

 

Ⅰ この世は私たちの渇きを満たせない
姦淫の現場を捕らえられた女性が宗教指導者達に捕らえられてイエスの所に連れてこられました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」とイエスに問うたのでした。彼らはイエスを訴える理由を見出すために、この罪を犯した女性を使ってイエスを陥れようと企てたのでした。姦淫の相手も当然裁かれるべきですが、ここには連れてこられてはいませんし、彼らを裁くためではなくイエスを告発する理由を見つけることが目的だということが明白です。
しかし、どちらにしてもこの女性が問い詰められていることに変わりはありません。罪を犯してしまった彼女の心中はどうだったでしょうか。たしかに罪は罪です。罪を正当化することは出来ないでしょう。しかし、そのような事態に至った彼女の過去と人生があったことを忘れてはなりません。彼女の心は愛に渇いていたのです。
この世の様々な刺激的な誘惑が私たちを誘います。私たちの渇きを満たせるかのような錯覚を与えます。しかし、そこには真の充足はないのです。それどころか、やがてそのつけが自分に返ってきてしまうこと になり、傷つけ傷つき合うようになってしまうことが多いのです。

 

Ⅱ キリストの愛が赦しと救いをもたらす
イエスに答えを要求する律法学者達はこの女性を自分達の目的のために利用するだけで、彼女のこれからの立ち直りと更正を考えてはいません。完全に罪人と決めつけ、責めるだけでした。しかしそのような扱いは人を変えることは出来ません。彼女は一生自分にレッテルを貼って失敗者として生きていくしか道はなかったのです
しかし、イエスの扱いは違いました。先ず「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われて罪なき人だけがその裁きに加わることが出来るとされました。そのイエスの言葉に律法学者達は年長者からはじめて、訴えてきていた人達は皆いなくなってしまいました。結局、誰も彼女を罪に定めることは出来なかったのです。私たちはみんな罪人であり人を罪に定めることなどはできなのです。そのことを忘れて人のことを責めてしまうのが私たちです。私たちは人を責める前に自分自身が赦されて生きる存在であることを知らなければなりません。
キリストは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われて、彼女を罪に定めず赦されたのでした。これがイエスの姿勢です。罪を十分に自覚しそれを悔いている人に対してイエスは更に裁きを下されません。赦しを通して新しい更生の道を開かれるのです。
彼女は思いがけない展開にすぐには状況は飲み込めなかったでしょう。周りに誰もいなくなり、イエス自身から、「私も罪に定めない。」と言われた時は信じられなかったでしょう。しかし、もう自分は裁かれない。罪を負うことがないことがわかった時にはどれほどの開放感と感謝が湧き起こってきたことでしょうか。

 

Ⅲ 赦された者が愛を解き放つ
この女性の名前は出てきませんが、『パッション』というキリストの最後を取り扱った映画ではこの女性をマグダラのマリヤとして描いています。彼女はキリストの十字架の最後まで献身的に仕えた女性とされています。その真偽は定かではありませんが、キリストの赦しと救いを体験したことがそれからの彼女の人生を変え、キリストに従う者になったことは想像に難くありません。
神は人を生かすお方です。人を生かすものは神の愛と赦しです。そのことを実践されるためキリストを私たちの所に遣わされたのです。キリストの無償の愛に触れた人は自分の存在の確かさを見出し、変えられて、今度は人々にその愛を伝える者へとなっていくのです。

 

Ⅳ 教会の使命
彼女がそうであったようにキリスト者の共同体である教会も神の愛を伝えるために置かれていることを覚えたいと思います。パウロも「私たちはキリストの使節」(Ⅱコリント5:20)といっていますが、この世にキリストの和解を伝える存在でなければその意義を失ってしまうことになります。
わたしたちの教会もその観点から新たなビジョンを掲げ、ミッションを明確にして日本の救いの為に神に用いられていきたいと思います。

以下に神様が現在語ってくださっている教会の使命とミッションを記します。どうか、祈って思いを共有してくだされば本当に幸いです。

■ 私たちの教会の使命愛を解き放つ教会」を目指します。これが私たちの教会の姿です。
標語として、LOVE JAPAN - LOVE TOKYO(ここにあなたの地域の名前を入れて下さい)を掲げます。
 ・使命の土台となる御言葉:
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 
(Ⅰコリント13:13)
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めで
す。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 
(マタイ22:37-39)
ホープ・ミッションは  3ー300ミッション(3つの300ミッションです)
 (300名の教会;300のファミリーグループ;300のミニストリー)
※ 目指すもの:「あなたの町の身近な教会」 

  ● ミッション1 300名の教会を生み出す:300名が入る宣教の中心となる会堂と働き

  ● ミッション2 300のファミリーグループ、ファミリーチャーチを生み出す
・私たちの地域の身近な教会ファミリーグループを形成して行くことを目指します。

  ● ミッション3 300の宣教奉仕ミニストリーを生み出す
・人々の必要は無限大です。その必要に答える宣教奉仕活動を通してキリストの愛
を実践していきます。また、教会員の隠れた賜物が生かされ主に用いられること
を目指します。

いつも兄弟姉妹のお祈りとご支援に心から感謝をいたします。教会も新しいビジョンを掲げて前進をしてまいります。どうか兄弟姉妹、私たちのこの日本の人々の救いのために祈ってください。また、同時に身近な周りにいる人々、あなたの家族、友人、関係する人々の救いのために祈りを継続して下さい。神は必ず救いに導いて下さいます。あなたの祈りと証し、与えられている賜物が用いられます。

8月12日から14日まで二泊三日の予定で日本福音宣教会の全国聖会が、愛媛松山のホテル奥道後で開催されます。そのときにお会いできれば感謝です。またお声をおかけ下さい。兄弟姉妹の上に更なる神様の祝福がございますようにお祈りをいたします。祈りに答えてくださる主に心より感謝しつつ。

キリストのしもべ       西田育生

 

 
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