「時を見分ける目」
主のみ名を賛美します。
梅雨の蒸し暑さが続きますが、皆様の体調はいかがでしょうか。今年もはや半分が過ぎ、折り返し点を迎えました。愛する皆様の後半の歩みが豊かに祝福されますようにお祈りをいたします。
毎日の小さな一歩であってもその積み重ねが1年の歩みとなります。今日という与えられた一日を大切にして前進いたしましょう。
今、私たちは大きな流動する社会の中に生きています。特にそれを肌で感じるような出来事が続いています。しかも、それらの状況がバラバラに起こっているのではなく、一つの大きな時代の転換期の中で起こっているように感じられます。
民主党が圧倒的な支持を得て、55年続いた自民党政権に取って代わりました。しかし政権を奪取した民主党も沖縄の米軍基地問題や政治資金の問題で躓き産みの苦しみをしています。その間に、次々と小政党が乱立し、もうすぐ参議院選挙ですが、まだまだこれから政界再編の動きが出てきそうです。日本の政治も大きな曲がり角に来ているようです。
政治だけでなく社会全体にも同じようなことが言えます。高齢化と少子化が進むなかで、人口構成が大きく変化し今まで機能していた年金制度や福祉制度、教育制度などの制度では間に合わなくなっています。現状に見合う制度を整備し、機能する制度の再構築が求められているのです。
時代の推移と共に変化する社会情勢にどのように対応していくか、また対応だけでなく新しい仕組みや流れをどのように生み出していくか。そのことが国や各組織に問われています。しかし、人はなかなかその変化に対応出来ず、危機感を覚えることも少ないのです。しかし、その対応が遅れたり、なおざりにされているといつの間にか、大きな問題を内包することになるのです。
その問題が表面化した卑近な例が大相撲力士による野球賭博事件でした。暴力団との結びつきが明白になり、今や相撲協会を解体して再出発しなければならないほどの大問題となっています。いままで大麻事件や力士暴行死事件などがありました。それらは相撲界の問題点を示すサインでした。しかし、抜本的な改革はなされず、今回の事件が発覚したのです。社会常識と乖離した、甘えが許される相撲協会の体質が大きくクローズアップされることになったのです。
私たちキリスト者はこれら大きな社会の転換期に生かされていることを自覚しなければなりません。現状を認識し、目覚めた意識を持って、一人一人に与えられている人生の使命は何かを問うことが大切です。一人一人は小さい存在かもしれませんが、世の光、地の塩として置かれているのです。
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。(伝道者の書3:1-2)
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。・・・あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネの福音書5:4-16)
Ⅰ 今の時を見極めよう。
聖書は「何事にも定った時期があり、全ての営みには時がある。」と語ります。今私たちの社会は変革を余儀なくされている時期に来ていますが、私たち自身はどのような時期に来ているでしょうか。
ある人にとっては種まきの時期かもしれません。将来に向かって具体的に動き始める時です。またある人は成長期かも知れません。蒔いた種をしっかりと育てる。継続して働きを積極的に勧める時かも知れません。また、自分の強みを強化する時に来ている人もいるでしょう。新しいことにチャレンジすると言うよりもじっくりと土台を強化して備える時です。ある人は今の日本のように転換期かも知れません。今までの生き方が陳腐化し、現状に合わなくなり、生き方の転換期を迎えている人です。
イエスキリストが来られたとき「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と宣言されました。神の国が到来したこと。その神の国に入るためには悔い改めること。キリストの救いの福音を信じることを宣言されたのです。イエスの宣教の中心。それがこの神の国の福音だったのです。
今の自分の置かれている現状を把握いたしましょう。あなたの内なる渇きは何を求めているでしょうか。霊的な栄養を求めているのか。新しいことにチャレンジする時なのか。未だじっくりと備えをして待つときなのか。神の前に静まり神の語り掛けに耳を傾け、内なる叫びに聞くものとなりましょう。
Ⅱ 豊かな実を結ぶために召されていることを自覚しよう。
主イエスは、ご自身と私たちとの関係をぶどうの木と枝にたとえて豊かな実を結ぶための原則を語って下さいました。私たちが豊かな実を結ぶこと、それが主イエスの願いであることを覚えましょう。神の救いにあずかったということは、罪から赦され解放されたというだけにとどまりません。豊かな実を結ぶ人生に入れられたということです。もし、キリストを信じて救いを体験したにも関わらず、当初の喜びや感動が少なくなっているとしたら、次の二点を確認してみましょう。
- キリストとの交わりを日々持っているか。イエスは私にとどまりなさい。と言われました。キリストにとどまるとはキリストとともに生活をするということです。絶えず交わりを持ちいのちの交流があるということです。家族でありながら、一週間以上も会話がない。食事も共にしない。という家族があるとするならそれは異常な家族と言えるでしょう。同様にイエスと日々生活する。すなわち、祈りを通してイエスと交わり、御言葉を通して神の思いを知る生活をすることが求められているのです。その中で神のみこころがわかってくるのです。
- キリストの使命に生きようとしているか。人は役割があると生き生きとしてきます。誰かのために自分が役に立っていると感じるとき、生き甲斐を感じるように出来ているのです。イエスは選ばれた目的を『任命した』という言葉で表現されました。神の働きのために私たちは役割を受けているのです。その役割を通して豊かな実を結ぶとき神は喜ばれ、私たちも生きる充実感を体験することが出来るのです。誰かに言われてではなく、また強制されてでもなく、自ら進んでその役割を担うとき、豊かな実を結ぶ道が開かれていると言えるのです。
Ⅲ 思い切って刈り込みをしよう。
イエスは「 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:2)と語っておられます。ぶどうの枝も伸び放題だと不必要な枝にばかり栄養が回ってしまい、肝心な実にまで栄養が行き渡りません。放っておくとぶどうの実は小振りになり、甘みが少なく、食べたくもない実になってしまいます。美味しい豊かな実を結ぶためには農夫は剪定をいたします。不必要な枝は伐採をし、一番良い実が実るように条件を整えるのです。
私たちも農夫である神様の剪定を受けて、豊かな実を結ぶようになりたいものです。自分の生活の中で不必要な枝、すなわち余り役に立たない習慣や妨げになっている生活パターンは何かを見極めましょう。中には今まで機能していたことでも機能しなくなったものもあるかも知れません。今までこうしていたからと言った前例や常識を見直してみることも必要です。自分ではなかなか気付いていないことも周りから見ればわかることも多いのです。そんなときは勇気を持って周りの身近な人に聞くことも大切です。信仰の友なら特に愛を持って祈ってくれ、真実を語ってくれるでしょう。
私たちの教会も宗教法人を取得できましたが、今私たちは新しい神の使命を実行する段階に来ていること覚えています。神が私たちの教会に付託されている使命は何か、その使命遂行のために何が必要なのかを改めて問いながら、新しい可能性に挑戦していきたいと願っています。そのための改善点があれば大胆に改善に取り組み、神の福音宣教に兄弟姉妹と共に労していきたいと願っています。
このわたしたちの置かれている社会はキリストの救いを必要としています。その昔、「私たちを助けて下さい」というマケドニヤ人の叫びを聞いたパウロ達はヨーロッパに渡っていきました。そのことがヨーロッパ宣教の始りとなったのです。私たちも現代の人々の叫びを聞き取り、その声に応答する教会となりたいと心から願います。またそのために主にある兄弟姉妹達が生き生きと輝いて主に用いられていくようにと心から祈っています。
いつも兄弟姉妹のお祈りとご支援に心から感謝をいたします。教会メッセージもCDで発送するようになりましたが、いかがでしょうか。何か改善点等が御座いましたら、遠慮なくご連絡下さい。
8月12日から14日まで二泊三日の予定で日本福音宣教会の全国聖会が、愛媛松山のホテル奥道後で開催されます。参加ご希望の方は直接日本福音宣教会の事務局(℡089-925-1603,FAX089-926-2785)にお問い合わせ下さるか、私たちの教会までお問い合わせ下さい。
兄弟姉妹の上に更なる神様の祝福がございますようにお祈りをいたします。祈りに答えてくださる主に心より感謝しつつ。