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NO.011  2010.3.31

「復活の主に出会う」

 

主のみ名を賛美します。
今年は桜の開花が足踏みするほど、寒のもどりが厳しく、季節外れの雪やみぞれが降ったりしましたが、愛する兄弟姉妹の所はいかがだったでしょうか。皆様の上に神様の守りと支えがありますよう心よりお祈りいたします。
さて、いよいよ新年度がスタートいたしました。新たな環境に向かってチャレンジしていく若者達の姿は初々しく新鮮な思いを持たせてくれます。同様に私たちも新たなる思いで信仰の恵みの中に漕ぎ出してまいりましょう。主は私たちの期待に倍する恵みを豊かに注いで下さいます。
今年は4月4日がイースターです。主イエスキリストの復活を祝うときです。主は死の壁を打ち破って甦られ今も生きておられます。この復活の信仰を私たちも自分の内に確立したいと願わされます。
毎年私たちはこのイエスの復活を記念するのですが、いつの間にか復活という言葉を当たり前のように使いながら、その現実性に乏しい感覚になってはいないでしょうか。イエスの復活という事実は歴史の大きな転換点となる驚くべき出来事だったことを忘れてはなりません。特に、当初はほとんどの人が信じられないほどの驚天動地のことだったのです。
もし、復活のイエスが弟子達にとってそうであったように私たちに現れてくださったらどうでしょうか。じっとしていることが出来ないほどの驚きと感動を覚えるはずです。神の存在がリアルに迫ってきて、誰かに知らせたい、じっとしてはおれないという感覚になるのではないでしょうか。
イースターを迎えるこの時、もう一度この復活のイエスと出会い、深い感動を心に覚える時とさせていただきましょう。


週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」女たちはイエスのみことばを思い出した。(ルカの福音書24:1-8)

 

Ⅰイエスの所に向かっているか

イエスが十字架につけられて三日目、イエスと共に歩んでいた者たちの中で女性たちが行動を起こしました。イエスの体につける香料を用意し、朝もやをかき分けるようにイエスの墓に向かいました。この彼女たちの行動がイエスの復活の出来事に遭遇することになったのです。もし彼女たちが墓に行かなければ、空っぽの墓を見いだすことは出来なかったでしょう。御使いの言葉を聞くこともありませんでした。また、そこで展開されている事柄を復活の事実と結びつけることも出来なかったでしょう。とにかくイエスに会いたい、そんな思いが彼女たちを墓に向かわせました。
一方、他の弟子たちはどうかと言えば、イエスが捕らえられ連行されるとき、散り散りになって逃げてしまいました。ペテロにいたってはイエスを知らないと言ってしまい深い自責の中にいたようです。立ち上がってイエスの墓に行こうという気力さえ失せていました。
おそらく墓に行く準備をしている女達を見ながら、「墓にいってどうなるのか?ローマの兵隊が番をしているんだぞ。追い返されるのが落ちだ。おまけに重い墓石をどうやって動かすのだ?兵隊達が手伝うわけがない。イエスの体に香油を塗るなんて不可能だ。どちらにしても、イエスは死んだのだ。もう終わりだ。」色々な理屈が駆け巡ったことでしょう。結局彼らは墓に行きませんでした。
私たちも現実に流されて、色々と理屈を言って、行動していないと言うことはないでしょうか。色々と言い訳を考え、出来ない理由を見いだしては心に言い聞かせ納得させようとしてはいないでしょうか。女たちと弟子達の意識の違いはそれほど大きくはなかったかもしれません。同じように悲しみ、辛さを味わっていたでしょう。しかし、彼女たちは、簡単に理屈を作って納得することをしませんでした。とにかくもう一度イエスの所に行って事実を確かめたい、愛するイエスのおられるところに行って、心の整理をつけたい。そんな思いが彼女たちをイエスに向かわせたのではないでしょうか。
このイエスに向かう思いが大切です。色々理屈を言っている間は事態に何の変化も見い出せないでしょう。しかし、イエスの所にとにかく行こう。その彼女たちの行動が、空っぽの墓の目撃者とさせました。
心の中にあるわだかまりを無いもののように装ったり、感じないようにしたり、考えないようにしたりしているといつの間にか、自分の感情や周りの変化に対しても無感覚になってしまいます。イエスに向かう。イエスに祈る。イエスの所に行く。その思いと行動が、違いを生み出すことを覚えたいと思います。


Ⅱ探す場所を間違えていないか
女達が墓についてみると、墓を封印している石はすでに転がしてありました。イエスの体も見あたりません。状況を把握できずに立ちすくんでいると、二人の人が現れ「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」と告げたのでした。この二人の御使いの話を聞くうちに、イエスが復活されたことに気づかされていくようになったのです。
イエスに向かって歩み始めると、自分のしていることが判ってきます。聖霊に教えられるのです。そこで始めて、自分たちはイエスを捜している場所が違っていることに気づかされます。
私たちは間違ったことをしていることになかなか気づきません。自分の計画の中に神がおられることを求めたり、自分の思いの場所に神を見いだしたいと願っていることもあります。でも、そんな私たちを神は取り扱って下さり、気づかせて下さるのです。
イエスを思う思いはあるでしょう。しかし、それが神様の願っておられるような思いであるかを問うてみましょう。イエスは私たちを今のところから違う所へ導かれようとしているかもしれません。もし自分の思いと違う状況が展開しているとするならば、その時こそ聖霊の取り扱いを受けるときということを覚えたいと思います。


Ⅲ神の計画の中で導かれていることを覚えよう。 
御使いは「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」と話を続けます。イエスの十字架もまた復活も全て神の計画の中にあることを示されたのです。「必ず~なければならない」という言葉は出来事の必然性を表す言い方です。イエスの身に起こった事は偶然ではなく、またおもいがけない事ではなく、神の必然なのです。
このことを理解するまでにはしばしば時間を要します。女たちも弟子たちも後にやっと理解が出来るようになりました。同様に私たちもこの復活の出来事を学ぶごとに、私たちの身に起こることは神の計画の中にあることを覚えたいと思います。私たちの身に起こる様々な問題も神の恵みを体験する機会となるのです。 
ある方のお母様が色々な苦しみで鬱病になられたそうです。彼はお母様の苦しみを見て自分も苦しみ、そのような事態になったことを辛く受け止めておられました。その事情をあるお医者さんに相談されたそうです。するとそのお医者さんは「それは素晴らしいご褒美ですよ!」と言われたそうです。「何でご褒美なんですか?」と聞き返したら「今まで一生懸命生きてきたからそうなられたんですよ。だから素晴らしいご褒美なんです。」何という発想の転換でしょう。早速、そのことをお母様にお話しされたら「一生懸命生きてきたご褒美・・・」と受け取られました。何かその言葉がストンと心に入ったようでした。それからしばらくしてお母様は完全に鬱病から解放されたそうです。
私たちの日々の生活には理解しがたいことや消化しきれないことが一杯起こります。しかし、それらが全て神の中に握られ、神に出会うために整えられていることを信じる事が出来たら、どんなにか素晴らしいことでしょうか。イエスの十字架も復活のために必然だったのです。主の栄光が現れるために神は私たちを導かれるのです。苦しみの中で祈るとき、いい知れない不安の中で主を見上げるとき、主からの語りかけが聞こえてきます。今までは頭の上を通過していたような言葉が、あなたの心にストンと入るときが来るのです。主はその時を持っておられることを覚えたいと思います。全ては大きな主の計画の中で導かれていることを信じて参りましょう。


Ⅳ復活の主と共に前進しよう
女たちはこの復活の出来事を知らせる最初の使者となりました。弟子たちは彼女たちの興奮に満ちた言葉に突き動かされます。ペテロが女達の話を聞いてすぐに墓に走っていきます。そして他の弟子たちも続くことになります。女たちの証しが発端となって、復活の出来事が伝わっていくことになりました。もちろん完全な意味での主の復活の認識にはしばらくの時間と復活の主との出会いが必要でしたが、女達のそのメッセージが用いられたのです。
あなたもあなたの中に生きておられる復活のイエスと共に立ち上がりませんか。このイースターこそ、復活のイエスの命に満たされて一歩踏み出していく時です。
アメリカではポテトチップを食べながらテレビを見る人のことを「カウチ(ソファーのこと)ポテト」と言うそうです。神の働きを見てはいるのですが、自分はソファーに座ってポテトチップを食べて傍観しているとするなら、自分自身が「カウチポテト」と呼ばれてしまいます。
イエスは私たちを復活の命の中に招いておられます。不満に満ちた人生や敗北感に捕らわれた人生から、復活のイエスの所に踏み出していこうではありませんか。主はあなたの上に復活の御業をあらわしてくださいます。
前号で5月の信仰成長バイブルフェロシップの案内を同封いたしましたが、是非愛する兄弟姉妹も検討してくだされば感謝です。年に一度の集いですが、今回も軽井沢の恵みシャレーで開催を致します。今回練馬グレイスチャペルの小笠原孝先生という素晴らしい神の器をお招きしております。深い御言葉の洞察から語られる先生の熱いメッセージはきっとあなたの魂を揺さぶることでしょう。どうか期待してお申し込み下さい。できましたら、4月半ばまでに申し込んでくだされば感謝です。未だ今まで一度も参加されたことのない兄弟姉妹、是非参加されることをお勧めいたします!
神様の圧倒的な祝福が兄弟姉妹の上にありますように。祈りに答えてくださる主に心より感謝しつつ。

キリストのしもべ       西田育生

 

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