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現代に生きる新約

NO.901 2025.11.16

「ナザレのイエス」        マタイの福音書 2章19節-23節  井上圭 伝道師

 

自分の地元が紹介されるとうれしいものですが悪いことで紹介された時は悲しい気持ちになることがあります。イエスはナザレで育ったので「ナザレのイエス」と呼ばれたのですが、当時その呼び名は蔑みの対象でした。イエスがこの世に来た目的は「ナザレのイエス」という言葉に凝縮されているようです。
ヘロデ王は暴虐でしたので「救い主が生まれた」と聞いて自分の地位を守るために2歳以下の子供を殺すように命じました。一方、ヨセフは夢でみ使いから警告されたのでイエスとマリアと一緒にエジプトに避難し、さらにみ使いのお告げによりガリラヤ地方のナザレに戻りました。イエスが「ナザレ人」と呼ばれる預言は明記されていませんが「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ11:1 )とあります。若枝は救い主のシンボルで「救い主」の発音と似ているため救い主はダビデの家系から出るという預言です。12弟子たちの間でも「『私たちは、モーセが律法の中で書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレ人でヨセフの子イエスです。』…『ナザレから何か良いものが出るだろうか。』…」(ヨハネ1:45-46)と、蔑みの言葉で話すナタナエルと感動しているピリポとは対照的です。
別の聖書個所でも預言されています。「実は、この男はまるで疫病のような人間で、…ナザレ人の一派の首謀者であります。」(使24:5)「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、…人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)「しかし 私は虫けらです。…私を見る者はみな わたしを嘲ります。…『…主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。』」(詩22:6-8)最後の言葉は十字架の上でイエスがあらゆる人々ら浴びせかけられた言葉です。イエスは馬小屋で生まれ、蔑まれたナザレの町で育ち、行く先々で蔑まれ、十字架で死なれました。イエスはそのような人生を歩まれたからこそ、嘲られ、蔑まれた人々の友となりました。私たちが、嘲りや蔑みで受けた傷を誰よりも理解し、共感して下さり、哀れんで下さいます。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。…それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。」(Ⅰペテロ2:22-24)イエスは私たちを丸ごと愛し、心の傷から解放して下さいます。私たちが嘲りを受けたり無視されたりした時、相手に復讐したくなるでしょうがそんな時イエスはどうされたのか思い出しましょう。世の中は出世や名声にこだわりがちですが、イエスはそれらの事にはこだわりませんでした。大工の子として生まれ、大工として働き、公生涯ではナザレでも蔑まれました。「ホサナ、ホサナ」と祝福されたのに、同じ人々から「十字架につけろ」と罵られるなど、名声とはほど遠い人生でした。
イエスは嘲り、罵られる人生のなかで謙遜すること、へりくだる事を学ばれました。「ナザレのイエス」の人生は私たちクリスチャンに対する謙遜の模範です。「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイ11:29)ここでくびきとは「ナザレのイエス」が嘲られ蔑まれた人生です。イエスはそこから柔和でへりくだる事を学ばれました。私たちも嘲り、蔑まれる「くびき」を負ったとしてもそこから謙遜とへりくだりを学ぶ者になりましょう。その時、心の傷を負うかもしれませんが、そこでしか学べない事があります。そしてその経験が同じような経験をした人を励ます力になります。「ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出てみもとに行こうではありませんか。」(ヘブル13:13)イエスは宿営(イスラエルの共同体)の外に出され初代教会の人々も同様でした。しかしそれでも信仰の道を歩み続けました。私たちにとって「ナザレのイエス」は嘲りや蔑みの対象ではなくむしろ「尊い御名」です。
「ナザレのイエス」には力があり私たちにとって喜びであり感謝です。イエスは私たちに謙遜とへりくだりをもって歩んでほしいと願っています。へりくだって低くなる者をイエスは高く上げると約束されているのです。 

 

≪分かち合いのために≫

  1. これまでの人生や信仰をもってから蔑まれたり、嘲られたりしたことがありますか
  2.  「ナザレのイエス」とイエス様が呼ばれたことは、あなたにとってどのような意味がありますか?

 今日の暗唱聖句

 

「ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出てみもとに行こうではありませんか。」                                           (ヘブル人への手紙13章13節)

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