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現代に生きる新約

NO.890 2025.08.31

「破れ口に立つ者」     エゼキエル書 22章30-31節   井上圭 伝道師

 

私たち の日常生活を見渡すと人間関係の破れ目や人生の破れなどが見つかります。そのような破れ目を塞いだり、修復したりしないなら状況は変わりません。人類にとって最も大きな破れ目は神と人との破れ目です。
今日の聖書個所には「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」(エゼキエル22:30)と神の気持ちが表われています。預言者エゼキエルの時代、神の民イスラエルは罪と悪を犯し、神を忘れた反逆者のようなでした。彼らの悪行は本当に忌まわしいものだったので、神はエルサレムを激しい怒りの火で焼き尽くすため、バビロン帝国を用いて滅ぼすことに決めたのです。しかしそのような状況にあって「破れ口に立つ者を彼らの間に探し求め」ました。それは彼らが悔い改め、立ち返るのを神は待ち望んでいるからです。しかし残念ながらエゼキエルの時代には「…探し求めたが、見つからなかった。」のでした。
破れ口に立つ者の代表的な例を二人挙げてみましょう。
その一人目は信仰の父、アブラハムです。ソドムとゴモラの町中には様々な忌まわしい罪が蔓延していました。神はソドムとゴモラをすぐ滅ぼすことも出来ましたが、その思いについて神は「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18:17)と考えたのです。アブラハムなら悪人が救われるのを願う神の心を知っていて、それを地上で執りなしてくれると思ったからではないでしょうか。アブラハムは神に対して「もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。…その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。…」(創世記18:24)と折衝しました。同様に40人、30人…と10人の正しい者がいるなら滅ぼさないというところまで、破れ口に立ち神に訴え続けたのでした。神は今もなお、ご自分のご計画を啓示され、破れ口に立つ者をお探しになっており、用いたいのです。
二人目はモーセです。モーセがシナイ山から下って来ないのを見てイスラエルの民たちはアロンのもとに集まり、金の子牛を作らせ、それを拝みました。これほど堕落した民に対して神は彼らを絶ち滅ぼそうとしたのです。しかしその時、激しく怒る神の前に立って、執りなし祈ったのがモーセでした。「…もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」(出エジプト記32:32)とイスラエルの民が救われるなら自分の名など消されても構いませんと執りなしました。「すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」(出エジプト32:14)と書かれています。モーセは命懸けで破れ目に立ったことが分かります。まさにモーセのような心を持った人が、破れ口に立つ者なのです。
旧約聖書で「祈る」という言葉には「仲裁する、間に入る、執りなす」という意味があります。祈るとは、神と人、人と人の仲裁や間に入り、執りなすことを意味します。私たちが仲裁に入る時や話し合いをする時はそれ以上にまずよく祈ることの方が何より重要です。日々執りなし祈っていないと、私たちはただ感情的、否定的、批判的になってしまいます。結果的に破れ口を塞ぐのではなく、かえって広げることになります。
そして私たちにとって、破れ口に立ち、執りなす最高のモデルとは誰でしょうか。それはイエスです。イエスは神と罪人との間に立ち、破れ目を繕い、補修してくださり、天と地を繋いでくださいました。全人類の罪を十字架で背負われ、破れ口に立って命懸けの執りなしをしてくださいました。例えば布や編み物がほつれたときに破れにくくするには「縦糸」と「横糸」をきっちり編み込むと破れにくなるのは理解できるでしょう。私たちにとって、「縦糸」はイエスとの関係であり「横糸」は兄弟姉妹たちのとの関係、人々との関係です。 
あなたにとって破れ口とはどこでしょうか。執り成し祈るのは誰のためでしょう。身近な所でいいのです。神はあなたが破れ口に立ってアブラハムやモーセそしてイエスのように執りなす者になることを願われているのです。 

 

≪分かち合いのために≫

  1. あなたが立つべき破れ口はどこでしょうか? 執りなし祈っていますか?
  2. 破れ目があるところに、あなたが破れ目を塞ぎ、繕うためにできることは何ですか?

 今日の暗唱聖句

 

「あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、 『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。」  (イザヤ書58章12節) 

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