「互いに仕え合う」 ヨハネの福音書 13章4-17節 井上圭 伝道師
今日の聖書個所は「洗足式」と呼ばれる箇所です。当時、人々はサンダルのようなものを履いて歩いていたので、家に入る時に足を洗う習慣がありました。しかも身分の低い人が足を洗う担当でした。ところが今日の聖書個所では、最後の晩餐が済んだ後、家の中にいるのにイエスご自身が弟子の足を洗い始めたのです。このように当時の習慣とは異なった行動をなさいましたが、そこに隠された意味を考えていきましょう。
「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ13:4-5) この聖句におけるイエスの姿は「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」とあります。これは古代の奴隷の姿と同じです。つまりイエスは奴隷のように仕えられたことを象徴しています。さらに「脱ぐ」という原語には「捨てる・脇に置く」という意味があります。別の聖句に「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)とありますがこの「捨てる」も同じ単語です。服を脱ぐだけなのにこの言葉を使ったのは十字架を暗示したのだと思われます。上着を脱いで弟子の足を洗う、とは、十字架でいのちを捨てて贖いを成し遂げて下さったことを暗示していると言えるのです。「神としてのあり方を捨てられないとは考えず…しもべの姿をとり…十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8)とは有名な聖句ですが、足を洗うことはまさに、謙虚になり低くなってくださったことの象徴的な行動だったのです。
続いて「ペテロはイエスに言った。『決して私の足を洗わないでください。』イエスは答えられた。『わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。』」(ヨハネ13:8)というイエスとペテロのやりとりがあります。関係ない、とは受けとる側にとってみればかなりきつい言葉にも聞こえます。またイエスが足を洗うか洗わないかはそんなに重要なのかと思ってしまいますが、足を洗うことは十字架を意味していますので、「関係があるかどうか」は「十字架を受け入れるかどうか」に通じます。イエスの十字架を拒み、罪の赦しを拒むのなら永遠のいのちも、罪の赦しも、神の愛と恵みも、天の御国の祝福の一切が何一つ受け取れないということです。
続いて「イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き…」(ヨハネ13:12) とあります。ここで「着る」という原語には「得る、手に入れる。取り戻す」という意味があります。服を脱ぐのが十字架にかかることなら、「服を着る、取り戻す」とはいのちを得ること、復活することを意味するでしょう。イエスが服を脱ぎ、足を洗い、服を着たという弟子たちに対する一連の行為は、イエスを信じるすべての人のために十字架にかかり復活していのちを得るというイエスの愛をお示しになっているのです。
そして「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(ヨハネ13:14)とお命じになります。私が模範を示したのでその通りにするように、と核心にふれたのです。ここで「主であり、師である」とありますが、「主」というギリシャ語は「キュリオス」といい、旧約聖書では「ヤハウェ」「アドナイ」に対応し、ローマ皇帝が絶対的な権力者であることを示す時にも用いられています。さらに突き詰めると、教会のchurchにも派生してゆきます。教会はイエスのもの、教会の主人はイエスで私たち信者はキリストのしもべであると言えましょう。
「互いに足を洗い合いなさい」とは、「互いに仕え合いなさい」ということです。さらに「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ5:3)とあります。教会における兄弟姉妹が神の命令を守り、お互いに仕えあい、家族に仕え、そしてコミュニティにおいて仕えあうことは重荷とならず喜びに変えられることでしょう。
≪分かち合いのために≫
- キュリオス(主)であるイエスのしもべとして、具体的にどのように歩みますか?
- 「互いに足を洗い合いなさい」という御言葉を教会で、どう実践されますか?
今日の暗唱聖句
「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を 洗い合わなければなりません。」 (ヨハネの福音書 13章14節)