「信仰の内実」 マタイの福音書21章18節-22節 井上圭 伝道師
私たちは人を見た目で判断しがちです。人は第一印象で本質は分かりません。「実を見て木を知れ」とはその人の内側から出て来る実を見て人を判断することです。
イスラエルの初代の王サウロは申し分ない美貌でしたが、実際には神の御心に叶う者では無かったので退けられ新たな王としてダビデが立てられました。ダビデは容姿や経歴で見ると王に相応しくありませんでしたが、神は人とは違う目で見られたのです。今日の聖書箇所はイエスがいちじくの木を呪って枯らすというショッキングな所ですがこの出来事から私たちの主は外側ではなく内側に注目される方であることを覚えましょう。イエスは小ロバに乗ってエルサレムに入った後、神殿でいわゆる「宮清め」をしました。その次の出来事が今日の聖書個所です。イエスにとってエルサレムの神殿は天の父なる神が臨在される場所であり帰る所でした。イエスは父の家をたて直したいと願われました。イエスの目には物理的な神殿以上に信じる人々が聖なる神殿、祈りの家とされ父の栄光があらわされることを願っておられました。私たちは絶えずこのイエスの願いを心に留めましょう。
道中いちじくの葉は茂っていましたが実はありません。それはイスラエルの象徴です。彼らの信仰は律法学者パリサイ人を中心に信仰の実が結ばれていませんでした。イエスがいちじくの木を見ると葉があるだけでした。「…イエスはその木に『今後いつまでも、おまえの実はならないように』と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」(マタ21:19)いちじくの実には春先は早すぎます。イエスの行動はひどいと思われるかもしれませんが、イスラエルの人々の信仰は葉ばかりで彼らの心は神から遠く離れた場所にありました。イザヤの預言です。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタ15:8)イザヤの時代も同じようにイスラエルの人々は内実の無い信仰でした。彼らには悔い改めも、御霊の実も、神とのいのちの交わりもありません。弟子たちもイエスの行動の意味が理解できません。「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」(マタ21:20)と。イエスはイスラエルを見捨てられたのではなく、形骸化した宗教生活を枯らせてピリオドを打ち、もっと素晴らしい信仰の実が結ばれる人生を歩ませたいと思われたのです。だからこそそこへの情熱を燃やされ十字架にかかってくださったのです。イエスはいちじくの木を呪い枯らされましたが、私たちのためにイエスが十字架で私たちの呪いを受けてくださいました。そして、豊かないのちの実が結ばれる信仰の道を開いてくださったのです。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」(ヨハ15:8)まだ実が結ばれていない弟子たちにイエスはビジョンを見ておられたのです。
神の子どもたちが実を結ぶには神から愛の剪定を受けます。ぶどうの木であるイエスに繋がる枝は取り除き刈り込むことでより多くの実が結ばれます。人間的な思いがイエスの考えに変えられることが悔い改めでありそれには痛みが伴います。しかし、悔い改めはネガティブなものではありません。悔い改めの先には神の栄光があり、豊かな実りがあるからです。悔い改めは祝福です。心の土地を耕し、御言葉の種がまかれ多くの実が結ばれます。その実が私たちの人格に結ばれます。「…もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」(マタ21:21-22)このような信仰を持って祈る時、信仰の内実の実が結ばれます。私たちの人生に神は良い働きをしてくださっています。そのために、葉を剪定しましょう。神が取り扱いたいと願われる領域を悔い改め祈る時、神は喜んで働かれます。
私たちはどの様な実を結びたいと願い祈り求めているでしょうか。収穫の実が豊かに結ばれると信じます。
≪分かち合いのために≫
- 主は聖なる神殿であるあなたをどんな目で見ておられますか?
- 実のない葉っぱだけのいちじくの木を見たら、どう思われますか? またイエス様ならどう思われ、どう扱われると思いますか?
今日の暗唱聖句
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けに なります。」 (ヨハネの福音書15:8)