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現代に生きる新約

NO.879 2025.06.15

「御父に似ていく」  Ⅰヨハネ3章1節-3節    井上圭 伝道師

 

今日は父の日です。聖書の中にも父親がたくさん登場します。父親について考えてゆきましょう。
聖書に出てくる父親は完ぺきな親とは言えません。例えば、神と共に歩み主の心にかなったノアは、子どもたちの前で酔って裸で寝てしまいました。信仰の父と呼ばれるアブラハムには不信仰の結果、そばめハガルとの間にイシュマエルという子どもが生まれ、家庭の中に緊張状態を作り出しました。大祭司エリや預言者サムエルも父親として問題を抱えていました。聖書は実に、不完全な父親だらけであって、決して父親を理想化したり、美化したりしていません。父親はみな、どう歩んでいけばよいのか模索し続けているのではないでしょうか。
しかし聖書にこうあります。天の御父は「あわれみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、咎と罪を赦してくれる。」(出34:6、民14:18、ネヘ9:17)のであり「主よ まことにあなたは いつくしみ深く 赦しに富み あなたを呼び求める者すべてに 恵み豊かであられます。」(詩篇86:5)と。つまり、天の父なる神が最高のロールモデルであることを教えて下さっているのです。今日の聖書個所には「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」(Ⅰヨハネ3:1)とありますが原文のニュアンスでは「見よ、何という愛」であり、それを「注意深く見つめ研究しなさい」という意味になります。その御父のすばらしい愛を知り、体験し、学び、実践していくなら、同じように素晴らしい父親、素晴らしい神の子どもに変えられていくと信じましょう。ここでいう「子ども」は原語では「幼子」を意味します。つまり両親に完全に頼り切らなければ生きていけない存在であり、「天の父に完全に頼り切って生きる」ことを通して、御父の愛の広さ、高さ、長さ、深さを味わい知ることができるのでしょう。
「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。」(ローマ8:14-15) とありますが、ここで鍵となるのは御霊です。私たちが聖霊に導かれていくなら「アバ、お父さん」と親しく交わりを持つことができます。聖霊によって私たちが神の子どもであることの確信を与えてくださいます。
父の愛を見事に表したのは放蕩息子のたとえ話でしょう。生前相続を受け、放蕩三昧の暮らしをしましたが、やがて豚が食べるいなご豆でもいいから腹を満たしたいと思うほど惨めな姿になった時、彼は我に返りました。そして父親のところで雇い人の一人にしてもらおう、と思い自分の家に帰りました。そんな時「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」(ルカ15:20)とあります。放蕩息子はかつての私たちの姿ですが今ではイエスを信じたゆえに父の身元にいる恵みを感謝します。「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。」(ヤコブ1:17a)と多くの恵みを得られるのです。ただ「すべての良い贈り物」とは必ずしも自分の願う通りのものとは限りません。すべてをご存じの神が与えて下さるのです。「そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」 (Ⅰテモテ2:8) とあります。つまり「どこででも、きよい手を上げ」天の父なる神に葛藤、問題、弱さを打ち明けて祈りなさい、という意味です。
私たちは自分の罪深さや至らなさ弱さを認めて打ち明けるのが苦手です。しかし父なる神は大きな愛で受け入れ、いつでも私たちを助け、導いてくださいます。どんなに困った時も父のもとに立ち返り、自分をさらけ出して親しく交わり続けていくなら、私たちは御父に似たものへと造り変えられていくことでしょう。

 

≪分かち合いのために≫

  1. 父親、夫、主にある兄弟、男性(母親、妻、主にある姉妹、女性)として、どのような葛藤や弱さを 抱えていますか?
  2. 天の御父との距離感はどうですか?御そばにおられますか? それとも遠のいておられるなら、 何が原因となっているでしょうか?

 今日の暗唱聖句

 

「そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい 手を上げて祈りなさい。」 (テモテの手紙第一 2章8節)

 

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