「一本の木」 出エジプト15章22節~27節 西田 立美師
モーセは旧約聖書のうち5つの書を書きましたが出エジプト記から信仰生活について考えましょう。
イスラエルの民はエジプトを脱出して約束の地へと向かいます。エジプトとは救われる前の私たちの状況を比喩していますし、約束の地とは天の御国を表しています。出エジプト記は英語では Exodus と言いますが、これは直訳すると脱出という意味になります。つまり、救われる前の苦しい状態から脱出して天の御国へ向かう日々の生活について書かれた記事といえます。イスラエルの民はエジプトを脱出しても試練や困難に遭います。エジプトを脱出して歩き続けました。三日間、荒野を歩いたけれど残念ながら水が見つかりません。マラに着き、水が見つかりましたが残念ながらその水は苦くて飲めません。私たちの生活に照らし合わせるとどうなるでしょうか。「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興そういった類のものです。」(ガラテヤ5:19‐21)とあるように、肉の欲に従って自分の思い通りにやっている日々です。もちろん全てではありませんが、思い当たるところがあるでしょう。
「モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと水は甘くなった。」(出エジプト16:25)とあり、イスラエルの民は水にありつけることができました。これを現代の私たちに当てはめると、一本の木とは十字架でしょう。そうです、苦い水(=苦しい生活)の中に一本の木(=十字架)を投げ込むことで状況が一変するのです。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(Ⅰペテロ2:24~25) とあります。私たちは、ここに帰らなければなりません。それは、いつも十字架が私たちを癒し、苦かった人生が甘く変えられる秘訣がここにあるからです。十字架のもとに行って重荷を下ろし十字架のもとで憩うこと。肉体的癒やし、精神的癒しが私たちには必要です。
続いて主は「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、私がエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。私は主、あなたを癒す者だからである。」(v26) とずばり語っています。しかしどうでしょう。神の命令をことごとく守り通すことなどできるでしょうか。さらに聖書は「…そこには十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。」(v27) と続けます。私たちには「十二の水の泉」がありイスラエルの民も「そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。」(v27)とあります。水の力によって力を得、試練困難を乗り越えてゆきたいものです。
さてその水の力が何なのかはサマリアの女性の記事に明確に表現されています。(ヨハネ4章)イエスはある時サマリアへわざわざ行ってその女性を救いに導きました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)と聖霊のことを語っています。別のところでも「だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37,38)と言い、生ける水の川の重要性を説いています。そればかりでありません。「…わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」(黙示録21:6)とか「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。…こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒した。」(黙示録22:1、2)などと数多くの記述があります。心の中に水の泉をもつといいのです。マラの苦い水は一本の木によって甘い水に変えられました。
イエスは私たちの中に喜びの泉、愛の泉を湧かせて下さり、義と平安をくださいます。聖霊の力によってこの世にあっても天の御国の前味を味わうことができます。聖霊の力により頼みましょう。
≪分かち合いのために≫
- マラのような苦い人生から甘い味のする喜びの人生へと変えられましたか?
- 聖霊の水はあなたの内から湧き上がり続けていますか?
今日の暗唱聖句
「…わたしは主、あなたを癒やす者だからである」 (出エジプト記 15章26節)