「神を待ち望め」 Ⅱコリント7章6節- 13節 西田育生牧師
今日 の聖書箇所は「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように/神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩編42編1節)で始まります。「心の中には空洞があって、神以外満たすことはできない。」とはアウグスチヌスの言葉です。詩編の作者は神を信じていたにもかかわらずそのたましいは渇いていました。
第一に、何が心に渇きをもたらすのでしょうか。サマリアの女性(ヨハネ4章)は井戸に水を汲みに来ましたが、愛に飢え渇いていたようです。何人もの男性と生活しても魂の満たし、霊的な満たしは得られなかったようです。「生ける神を求めて」(詩編42:2)いたのでしょう。イエスに出会い、いのちの水を得ました。私たちは信仰を持って神を信じていても試練や困難はやってきます。肉体的な渇き=喉が渇いた、栄養が足りないなど=は他人が見てもわかりますが、魂の渇きはその人にしか分からないでしょう。この詩編の作者は心の揺れ動きを赤裸々に語っています。神の前に自分の気持ちを言い表すのは必要でしょう。
第二に、信仰について誤解し、思い込みが強いことはないでしょうか。たとえば神を信じれば自分の欲求を満たしてくれるという思い込みです。日本には八百万の神がいるといいます。自分の困ったことを解決してくれ、要求を満たしてくれる神を作り出し、その神を崇めるのです。自分の願いを叶えてくれる神がいい神であり、霊験あらたかな神、ということでしょう。あるいは、聖書を読む時も気を付けなければなりません。今の気持ちにぴたりと合う聖句を探したり、都合の悪い聖句には目をつむってしまう。聖書全体から神のご計画を理解する必要があるのです。別の例としては、信仰を持てば悩みや落ち込むことはなくなるという誤解です。問題が起こった時、自分の信仰が弱いからだ、病気になるのは自分の信仰がないからだ、などと考えてしまうのです。信仰を持っても問題は起きますし悩みは無くなりません。逆に、問題が起き、悩みが生じるからこそ神を求めるようになるのです。イエスは十字架に架かる前、ゲッセマネで祈りました。マザーテレサも多くの悩みがあったことを著書の中で打ち明けています。この詩編の作者も「…神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。・・・」(詩編42:1-2)と語っています。こんな苦しみがあるのだから、もはや神などいない、と神を否定しても問題の解決を得ることはできません。自分では理解出来ない苦しみがあり、信仰の葛藤がある時こそ、生ける神がおられることを信頼し、神を求め続けていく姿が大切なのです。
第三に、ではどのようにして神を待ち望むのでしょうか。一つ目は「私は自分のうちで思い起こし」(詩編42-4)とありますがこれは「…喜びと感謝の声を上げて…神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを」(同4節)のようにそれによって慰められ大きな力を得ることができました。続いて「…あなたを思い起こします」(詩編42-6)とありますが、大きな御業を起こして下さった神を思い起こしたのです。状況や環境は変わっても共に居て下さる神はその時の神と変わらないと思い直しました。「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩編103:2)とありますが、あの時、私たちを守り導いて下さった神が今もなお、共におられることを再確認したのです。二つ目は心を開いて告白することです。「昼も夜も 私の涙が私の食べ物でした。…」(詩編42:3)だれでも涙を流していいのです。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。… 私に敵対する者たちは…耐えず私に言っています『おまえの神はどこにいるのか』と。」(詩編42:9、10) 自分の神に対する思いや他人から言われて辛いことなどを正直に告白しています。神に聞いていただくことで感謝の歌も生まれてくると言えましょう。そして三つめは、自分に問いかけることです。心の大変な葛藤の中で、「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。」 と5節、11節で重ねて言っています。自問自答した後、自らに向かって、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」(同5節・11節) と言い聞かせ、奮い立させ、信仰を成長させているのです。
≪分かち合いのために≫
- 最近心の渇きを覚えたことはありますか。
- どのような信仰の思い込みがあるでしょうか。
- 神を待ち望むために心がけることはどのようなことでしょうか。
今日の暗唱聖句
「わがたましいよ なぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩篇 42:5)