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NO.018   2009.08.02

 ■夫婦の証    妻:加藤 ゆりえ

 

私は韓国ソウルで生まれました。3歳のとき両親が離婚したので、お祖母さんに過保護過ぎるほどに大事に育てられました。思春期になって、人間は何故生まれたのか、生きていく目的は何なのか疑問を持つようになりました。本を読み、手相とか顔相の勉強をしたり、仏教の教理にも関心を持ちました。とにかく、生きることの意味を探すために、その後もいろいろ模索してみましたが、答えは見いだせませんでした。
私が26歳の時、中学生になった知人の娘が、不良友達と夜遊びをするようになり、娘のお母さんが心配をしていました。自分の思春期のときとオーバーラップして、何とかその娘の力になろうとしましたが、その子に拒否されてしまいました。そのときの私の心は、それまで経験したことがない、痛みと苦しみでどうしようもなくなりました。
いつも心の頼りになってくれていたクリスチャンの叔母に、そのことを相談してみました。
叔母は、その痛みと苦しみは聖霊の働きだから、「私のところに来て、一緒に祈ろう。」と言いました。
よくわからないまま、どうしようもない心で、叔母のところで祈ってもらいました。涙がわけもなく、
溢れるように流れ、止まりませんでした。後になって考えてみると、そのとき感じられた心は、罪人を
憐れんでくださったイエス様の心が、自分を捕らえていたのではないかと思いました。
その後不思議な導きで…怖い先輩に半ば強制的に…教会に連れて行かれ、意味もよくわからないうちに、洗礼を受けることになりました。それから、勧められて毎日聖書を読んでいたら、聖書に書かれている生き方と自分とは、あまりにもかけ離れていることに気付きました。自信がなくなった私は、「自分にはとても無理だから、聖霊様、私を変えてください。」と祈りました。
その後二十五年の歳月が流れ、いろいろなことがありましたが、どうしても成長しない自分に呆れたことが何度もありました。しかし、最近、あまりにも基本ができてない私ですが、本当に少しずつ、確かに造り替えられているのではないかと感じられるようになりました。特に、夫との様々な対立を通して…かなり厳しい戦争をしたのですが…そのことを通して、お互いに砕かれ、今はお互いを感謝して生きることができるようになりました。
罪深い私ですが、神様が哀れんでくださり、神様の不思議な働きを通して救われたことは、ただただ一方的な恵みであり、感謝しても感謝しきれないことであることがわかりました。残された時間は、自分とは違う人を心から受け入れ、愛することができるように、狭い私の心をイエス様の愛によって広くして頂けるように、祈り続けながら歩んでいきたいと願っています。

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