「エル・ロイ」
「そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を『あなたはエル・ロイ。』と呼んだ。それは、『ご覧になる方の うしろを私が見て、なおもここにいるとは。』と彼女が言ったからである。」(創世記16:13)

先日のことある主婦の方とお交わりをしていました。今、子育て中ということもあり、かなりストレスもたまっておられるようでした。「家の主人がもう少し手伝ってくれるとありがたいんですけれどね。まあ手伝ってくれなくても、ご苦労さんとか、ありがとうとか、何かねぎらいの言葉があるだけでも心がほっとするのですが。主人は帰ると、ボーっと横になってテレビを見るだけ。見てるとこちらがイライラしてしまいます。最近出てきたおなかがタマちゃんに似ていて。まだタマちゃんなら可愛いのですが。」一方ご主人のほうはというと彼にも彼なりの言い分がありました。後日お話すると「確かに家内は良くやってくれていると思うんですよ。でも、私だって一日忙しく仕事をして帰ってくるんです。どうしても、家にいるときくらいは好きなようにさせてもらいたいですよね。そのくらいの事は分ってもらいたいですよ。こちらも『ご苦労様』といって貰いたいですよ。」
確かに奥さんもご主人もそれぞれに一生懸命なのはよく分ります。でも、どうもお互いがどれだけ自分が一生懸命やっているかを主張するばかりでは、お互い平行線をたどるばかりです。もう少しのいたわり、もうチョットの優しさ、もう少しの理解、もう少しの聞く態度、(これらを愛の態度というのです。)それがあるだけでどれだけお互いが歩み寄れるでしょうか。
キリスト者とて努力なしにその愛の関係を保つことはできません。しかし、人の力だけでは限りがあります。相手に自分の気持や感情を理解させようとすればするほど摩擦が生じたりします。そして、相手は解かってくれない。理解してくれない。と思うと大きな疲労感に襲われ、虚脱状態に陥ってしまう事もあるのです。そんな状態に陥らず、前向きに生きていくには『エル・ロイ』の神を覚える事です。
「そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を『あなたはエル・ロイ。』と呼んだ。それは、『ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。』と彼女が言ったからである。」(創世記16:13)
アブラハムと妻サラには長年子供がありませんでした。跡目を継ぐために妻サラは自分の奴隷女ハガルを夫に与えて、子供をもうけさせます。ところが子供を得たハガルはサラを見下す態度を取ってしまいます。そのことはサラの怒りをかい、サラからいじめられるようになるのです。たまらずハガルは子供を連れて逃げ出すのですが、その彼女に神は、「サラの所に帰り、身を低くするように」と優しく語り掛けられたのでした。自分の身から招いたものとはいえ、つらく、苦しい状況のハガルでした。でも、神は彼女を見捨てられず、見ておられたのです。思わぬ神の語りかけに、ハガルはおもわず、主なる神を「エル・ロイ」とよんだのでした。すなわち、『ご覧になる神』と。
私たちが信じている神は、『ご覧になる神』なのです。あなたの苦しみや、辛さを誰も知らないとしても、神は知っておられます。人知れず祈りの中で流した涙、それらは全部主が覚えておられるのです。 ですから、人が認めてくれなくても見ていてくださり、助けてくださり、導いてくださるイエスキリストを見上げて前進するものとなりましょう。神からの慰めや励ましが全てであり、主は私たちの労苦に十分報いてくださるお方なのです。まさにエル・ロイです。 (プレイバック週報2003年9月7日『牧師館』より 西田育生師)