「人生の軸」
「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。…」 (Ⅱコリント13:5)

古典落語に『猫の皿』というのがあります。 ある鑑定士が、旅の途中、立ち寄った田舎の茶店で高麗の梅鉢という、売れば300両はくだらないという皿を見つけます。しかも,その皿が茶屋で飼っている猫の飯皿として使われている様子。茶屋の主人は皿の値打ちを知らないものと思って、この鑑定士、その高価な皿をふんだくろうと考えます。
「・・・なあ爺さん、この猫くれねぇか。まだ他にもいるんだろう。1匹くれよ。ただで貰おうってんじゃないよ。鰹節代置いておこう。小判3枚で、これを売ってくれ」「そんなに!」「いいんだよ。気に入ったから買うんだから。(猫に話しかけて)なぁ、いいよなぁ。これから宿に帰って、うまいもん食わしてやるからな」「どうも、この猫は幸せものでございますな。どうか、うんと可愛がってください」「あぁ、可愛がるよ。子供もいないし。(そこで初めて気がついたかのように)この皿で、猫に飯食わせていたのかい?」「えぇ、そうなんです」「あ、そうかい。猫っていうのは神経質な生き物だから、皿が変わると食わないっていうから、この皿持っていって、これで食わせてやろう」「それは駄目です。それは、こんなところに置いてありますが、高麗の梅鉢と言いまして、300両くらいにはなるんです。こっちの茶碗でも食べますから、これを持っていってください」「(いまいましそうに)知ってたのか。それじゃあ、どうしてそんな高価な皿で猫に飯なんか食わせるんだい」「へぇ、そうしておくと、時々猫が3両で売れますんで」
騙そうと思っていたのに、相手が一枚上手で結局欲しくない猫を買わされてしまうという落ちがついています。欲がからむと結局ろくな事はないようです。しかし、これは私たちの人生の縮図でもあります。同様に私たちの信仰生活の中にも意識しない間に欲望が入り込んできます。私たちの信仰の動機の中にも利己的な欲望があって、熱心な信仰の裏側に、もしかすると自分の欲望達成のための手段になっていたり,誰かに認められたくて熱心になっているのかもしれません。あるいは人の目を気にしてそのように装っているかもしれません。イエスを見ているはずなのに、いつの間にか人を見たりして、信仰の中心点がずれてくる可能性があるのです。私たちの信仰の中身を問いながら、純粋な信仰の姿勢へと立ち返るものとなりましょう。
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。(Ⅱコリント13:5)と言うパウロの言葉に耳を傾けましょう。
あなたの信仰の軸はしっかりと定まっていますか?信仰はじっくりと腰をおろして、イエスに向き合いこのお方との交わりを確立する事が大切です。確かに今まで,罪の中にどっぷりと浸かって生活をしていたのですから、生活の隅々にまで信仰が浸透するまでには時間がかかります。
焦らずにキリストの前に出て、キリスト中心の軸を定める事が大切です。今まで諦めやすかったり、すぐに上手く行かないと信仰の歩みを辞めてみたりしていては真の信仰の喜びには至りません。救いの喜びを頂いた私たちは、尚一層祈り深く、御言葉に忠実に聞き、キリストに近づいていこうではありませんか。信仰の中心軸を定めましょう。 (プレイバック週報2003年6月29日『牧師館』より 西田育生師)