「すべては重荷から始まる」
イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。(マルコの福音書6:34)
今日は、礼拝後「教会総会:感謝とビジョンの集い」が開催されます。東京ホープチャペルが1995年に開拓を始めて、29年目となります。この浅草の地に教会が与えられ、キリスト宣教の足掛かりが与えられたことは神様の恵みと憐みの何ものでもないと思わされます。本日の総会において、愛する兄弟姉妹と共に今までの神様の導きを振り返り、感謝をささげたいと思います。そして、これから神様がなさろうとしておられるご計画に沿って教会の歩みを、更に前進させていただきたいと心から願っております。
そこで私たちが一番に心に留めること、それは教会の使命です。イエス様は天に挙げられる前に、大宣教命令を弟子たちに与えられました。マルコの福音書16:15には「 それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。』」とイエス様は弟子たちに福音宣教の使命を与えられました。また、マタイの福音書28章19節~20節では「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と語られて、救われた人々を弟子とするように、弟子化命令を発しておられます。
これら二つの御言葉からわかるように、教会の第一使命はキリストの福音宣教です。同時に、救われた人々が主の弟子となって福音宣教の使命を担っていくことが期待されているのです。この使命なくして、教会の存在意義はありません。教会を通して、福音が周りの人たちに届けられていくのです。教会を通してとは、すなわち私たちを通してと言うことです。私たちを通して、キリストの救いが周りの人々に届けられているだろうか。その使命を果たしているだろうか。と自問自答をすることが大切です。どんなに立派な会堂があったとしても、またどんな素晴らしいイベントやプログラムがあったとしても、それらがすべて福音の為に用いられてこそ意味があるのです。パウロ自身も、「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」(Ⅰコリ ント9:23)と言っているように、生活そのものがキリストの福音の為の生活なのです。キリストの福音ほど力あるものはありません。キリストを通して、罪が赦され、神の民として生きることができる。さらにはキリストによる圧倒的な勝利者として、イエスの弟子として生きる。これこそが福音の真髄です。
この福音はどのようにして伝えられて行くのでしょうか。イエス様の宣教は、人々への重荷から始まりました。イエス様が人々をご覧になった時、「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」とあります。イエス様が人々をも見た時、深い憐れみを覚えられたのです。それは心が引き裂かれるような思いでした。そのあわれみの心、すなわち人々に対して感じる重荷、そこからイエス様の愛の宣教は始まったのです。福音を伝えると言うことを大上段に構えたり大袈裟に感じる必要はありません。あなたの周りにいる人たちに対して感じる憐みの思い、何とかキリストのもとに導きたいと言う重荷、それが福音を伝える心なのです。そこからイエス様の愛は伝わっていくのです。私たちもこのキリストの愛と憐みによって救われました。あなたもその証人となって下さい。主はあなたを主の弟子として用いてくださいます。