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NO.381 2015.12.06

 「主を求めよう

 

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(イザヤ55:6)

 

インドに二週間伝道に行った時のことです。マドラスという町の郊外に滞在しました。南インドの乾季はほとんど雨が降らず、気温も40度を超えます。非常に埃っぽく、ワイシャツも一日で汚れるほどでした。帰国して驚いたことはインドでは全然気づかなかったのですが、白いはずのワイシャツが黄ばんでいたことでした。他の着なかった白のワイシャツと比べると全然白さが違うのです。埃っぽい環境ではわからなかったのですが、日本に帰り、本当の白さと比較するとその汚れ方がひどかったのがわかりました。
このことは私たちの意識についてもいえることです。毎日テレビや新聞などのニュースに触れ続け、一週間の大半を社会の中に過ごしていると、この社会の環境にどっぷりと浸っていることになります。無批判に情報を受け入れていると、その情報の中で伝わってくる価値観にいつの間にか影響を受けていることになります。もちろん良い情報もあるでしょうが、そうでない間違った情報や退廃的な価値観に知らず知らずのうちに影響されて、神への信仰にもこの世的な価値観が入り込み、歪んだ信仰になったりすることになるかのうせいがあります。ちょうど自分が黄ばんで汚れているのに、それに気づかないのと同じです。ですから、日々の生活の中で信仰漬けになるような工夫をすることが大切です。
聖書は主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」と語りかけています。主を求めることに励みなさいと言われています。主を求めるとは、主が願っていることを聞きなさいということであり、主に従っていきなさいと勧めているのです。
お会いできる間にとは、自分で決断して行動できる間にということです。時を生かして、主を求めることです。私たちがもう少し早くしておければよかったと後悔しなくて済む間が今なのです。神様に出会うことのできる猶予期間が今なのです。
病気をすると、みんなもっと健康に気をつけておけばよかった。周りのアドバイスに聞いておけばよかったと後悔したりするものです。私たちに与えられている時間は永遠ではないのです。限られた時間が私たちの持ち時間です。そしてその持ち時間がどれくらいあるかは知らされてはいないのです。そうだとすれば少しでも早く、少しでも長く、神様を求めることを今の間にしていこうではありませんか。
聖書は私たちの心を照らす鏡のようなものです。聖書に向きあってはじめて、自分の本当の姿や自分の心の状態がわかるのです。聖書なしには自分の心の汚れに気づけません。本当はもう霊的な病気に鳴っているのに、それに気づいていないかもしれません。聖書の光に照らされ、どのように修復すればよいか教えられて応答していこうではありませんか。
ちょうど今は、キリストの降誕を待ち望むアドベント(待降節)の時です。キリストは私たちを罪の中から救うためにこの世に来てくださいました。神の愛を示し、罪の赦しの道を開いてくださったのです。このキリストをしっかりと心に迎えましょう。心の状態を正直に主に告白し、主と交わる祈りの時を持ちましょう。今こそ主を求める時であり、主が近くいいてくださる時なのです。この、今日という確かな日に、私たちは心から主を求めようではありませんか。

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