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NO.377 2015.11.08

 「裸の付き合い

 

私たちに対して心を開いてください。(Ⅱコリント7:2)

 

円安の影響で、海外からの観光客が急増しています。特に、中国、台湾、韓国を中心に東南アジアからの観光客があふれています。身近なスカイツリーや浅草寺周辺を歩くと、自分が外国にきたのではないかと思われるほど、日本語を聞くほうが少ないくらいです。爆買いという言葉がはやるほど、たくさんの買い物をしてくださるのはうれしい限りですが、同時にマナーの問題なども起こってきています。
2020年の東京オリンピックも控えていますし、日本の文化を知ってもらい、私たちも外国の人や文化を知り、互いの理解を深め合うことができるなら、それは素晴らしいことです。
今まで入れ墨をした人は入浴禁止の銭湯が多かったのですが、観光客の入浴が増えるにつけ、入浴禁止を緩和する銭湯が増えつつあります。日本では入れ墨はやくざの世界の人がするものという固定観念がありましたが、外国の人たちにとって入れ墨は芸術の一つであり、自分を飾るファッションの一つなのです。ですから気軽に入れ墨を入れるし、入れ墨に対する偏見がないのです。銭湯に行くと周りは入れ墨の人だらけということになるかもしれません。
日本ではよく「裸の付き合い」ということを言います。文字通り、銭湯に入って、体を互に流し合いながら、インターナショナルな裸の付き合いができる。銭湯がコミュニケーションを深める場になるのも近いのではないでしょうか。
教会も家族としての交わりを推奨していますが、ことはそれほど簡単ではありません。家族として生きるということは「裸の付き合い」をするということもでもあるのですが、実際、それを実践しようとすれば、いろいろな困難を感じるのも事実です。
裸になるには、着ている服を脱がなければなりません。素の自分を見せることになります。しかし、素の自分を見せるには勇気がいります。傷があるかもしれません。人に見せたくないものもあります。
まず、場を整えられる必要があります。まず服を脱いでもいいと思える安心な場所、信頼できる場所が必要です。傷ついた人が教会に来て、重荷を下ろせる場所があるとどんなにか心が楽になるでしょうか。責められたり、裁かれたりするなら、裸の付き合いはできません。中には入れ墨を入れたような人も来るかもしれません。それでもそこにいることのできる場所があるとするなら、それこそ裸の付き合いの始まりです。キリストを通して、互いが赦し合い、愛し合う場所。祈り合う場所、それが教会であり、親密な集いと言えるでしょう。
イソップ物語の「北風と太陽」の話のように、寒い北風にさらされれば、人はますます襟を立て、固くコートを握りしめるでしょう。しかし、暖かい太陽に照らされれば、そのぬくもりにより、自らコートを脱ぎ、楽な姿になれるでしょう。まさに教会や小グループの集まりは太陽のような働きをするところです。最初は硬く感じていた人も、やがて胸襟を開き、自分のことを分かち合えるようになる。人の脅威を感じることなく、素直な気持ちで自分を出すことができる。まさに裸の付き合いが始まるようになるのです。一人一人がそのために何ができるか主から示されるように求めてまいりましょう。

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