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NO.367 2015.08.30

 「関係を喜ぶ

 

だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。

いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。

(ルカの福音書15:32)

 

本日の第2礼拝は洗礼式礼拝です。8名の兄弟姉妹が洗礼を受けられます。ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)とありますから、天上において大きな喜びが沸き起こっているに違いありません。
お一人お一人に神様が働いてくださり、不思議な導きが与えられ、信仰に導かれました。今回の洗礼式のために遠方から来られた兄弟姉妹もおられますが、皆、私たちと同じ神の家族です。どうか、愛する兄弟姉妹のこれからの信仰生活が豊かに祝福され、イエス様とともに喜びに満ちた信仰生活を送られ、成長していかれますように覚えてお祈りください。
私たちの神様は「あなたはどこにいるのか」とアダムエバの罪以来、ずっと私たちを探し求めてこられたお方です。ですから神のもとに立ち帰られた兄弟姉妹のことを何よりも一番喜んでおられるのは神様ご自身です。信仰は神との関係の回復から始まります。そしてこの神との関係を深めていくのがこれからの信仰生活なのです。ですから、いつも神との関係を第一に喜び、楽しむようにいたしましょう。
礼拝においても、祈りにおいても、普段の生活において、まず何よりも優先されるべきは神との関係であり交わりです。この神との豊かな交わりからすべては始まっていくことを覚えたいと思います。
聖書の放蕩息子の話は関係について理解する上で象徴的です。放蕩三昧をし、財産を失い、すべてをなくした息子を、首を長くして帰りを待ち続けたのは父親でした。ぼろぼろになって帰ってきた息子を父親は走り寄り抱きました。とがめもせず、あるがままで受け入れ、帰還を本当に喜び、元の息子として受け入れてくれました。父親は息子を無条件の愛で受け止めたのです。
一方、それが気に食わなかったのが長男でした。長男には弟のしたことが赦せませんでした。弟はもっと自分のしたことを反省し、謝罪をすべきだと思っていました。彼の心は怒りと裁きの思いでいっぱいでした。
また、弟を受け入れた父親にも不満を抱きました。まじめな自分には弟にしたようなことを父はしてくれたためしがない。不公平ではないか。放蕩し身を持ち崩した弟を息子として迎え入れるなんて赦せない。自分のしてきたことはどう評価されるのだ。彼は父親との関係を楽しむことができませんでした。自分の行為を認めてほしかったのです。彼の父との関係は条件付きの関係でした。自分が愛されるのはまじめな自分であり、ちゃんとしている自分であると思っていました。彼にとって親に受け入れられる関係には良い行いという条件が付随していたのです。
一方、神は無条件で私たちを愛してくださいました。ご自分の命を十字架にささげ、私たちの罪の身代わりとなってくださったのがイエスキリストでした。この神の愛を受けて私たちは罪が赦されたのです。神との関係には何の条件もないのです。天の父は私たちを愛し、神との関係を日々喜んで生きてほしいと願っておられるのです。
この洗礼式の日、私たちと神との関係をもう一度しっかり見直しましょう。キリストの愛をもって人との関係も構築していきましょう。関係を喜ぶのが神の家族なのです

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