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NO.366 2015.08.23

 「無関心に気を付けよう

 

だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。(Ⅱコリント11:29)

 

先週、痛ましい事件が起こりました。大阪寝屋川で中学生の男女が行方不明となり、遺体で発見されました。犯人も捕まりましたが、全く面識のない男性の車に乗り、その車の中で暴行を受けたようです。まだ全容はわかっていませんが、ご家族や友人の方々の思いは察して余りあるものがあるでしょう。
なぜ未然に防げなかったのだろう。何が原因だったのだろう。このような事件が起きると常に起こる議論です。家族の環境を取り上げる人もいます。交友関係の問題をいう人もいます。二人の自己責任という人もいます。しかし彼らはまだ13歳です。
気を付けなければならないのは原因探しをするあまり、誰かの責任として押し付けてしまうことです。今若者を取り巻く環境や社会の問題を私たち自身の問題として考えることが必要だと思います。
今の社会の風潮は「無関心」という言葉で表されます。自分とは関係ない。それはその人たちの問題で、自分の問題ではない。そう思ってしまうと、ますます問題が拡大してしまいます。同様なことが私たちの身近に起こる可能性もあるのです。
現代はよく「ポストモダンの時代」だと言われています。この時代の特徴は、価値の多様化です。人それぞれの生き方があるのでそれを尊重しようというのです。しかし、気を付けなければならないのは「人は人、自分は自分」。他人のことに口出しをしない。という傾向です。そのことによってさまざまな問題が進行していても見過ごしてしまいがちになります。互いに注意しあうこともなくなり、人と人との関係も希薄になっているのです。
半面、心寂しくつながりを求めている人もたくさん増えているのですが、その受け皿がないのです。孤独に陥り、自分の悩みを聞いてくれる人がいないので、精神的な病になる人も多いのです。
パウロは「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」と告白しています。パウロは弱っている人を見ると無関心でおれなかったのです。誰かがつまずいているのに、平然とはしておれなかったのです。それは外見だけではありません。神から離れて迷っている人たちの霊的状況を見ていたのです。ですから、神への熱い祈りが沸き起こり、福音を伝える行動に駆り立てていったのです。
私たちも無関心であることから脱却しなければなりません。人の悩みを受け止め祈るものとなりましょう。できる手助けがあるなら、信仰と愛の行動を躊躇しないで実行に移しましょう。もちろんそこには知恵や配慮も必要でしょう。相手の状況を見極めながら、祈ることから始めようではありませんか。私たちの周りには声なき声で助けを求めている人たちが大勢いるのです。
福音はまず、相手に関心を持ち、祈ることから始まることを覚えたいと思います。関係は福音が伝わる橋なのです。関係のない関係から、関心を持つ関係へとまず変えられて行こうではありませんか。

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