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NO.196  2012.05.20

 「チャレンジすることの恵み」

 

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 
(ピリピ2:6-7)

 

人生はチャレンジの連続だと言えます。思いもよらない環境の変化や困難に直面し、対応と変化が求められることがあります。特に、昨年の東日本大震災は、今までの生き方を問い直す大きなターニングポイントになりました。今その対応に国中が追われていると言えます。特に電力の分野ではそれが顕著です。今夏の電力不足に対応する節電が求められ、原発に代わる発電方法の見直しや新規開発、更には大手電力会社の独占体制から電力の自由化への波が加速しつつあります。この震災が突きつけたライフスタイルへの挑戦ははなはだ大きかったと言えます。
また、一方で夢やビジョン、更には自己成長のために自ら積極的に挑戦するチャレンジもあります。
今、教会で行なわれている養育のクラスも第2回目になりますが、参加されている兄弟姉妹の積極的な姿勢が伝わってきて本当に感謝です!養育の中で、信仰の基本を学び、聖書通読や祈り、ディボーションなどにチャレンジしていくのです。年令も千差万別です。中には大丈夫だろうか。出来るだろうかと思う方もおられるでしょう。でも、チャレンジしておられる姿勢を神様は豊かに祝福してくださるのです。
何をするにも最初に一番エネルギーが入ります。まだ十分に慣れていないからです。車でも走り始めるときはローギアで走り始めます。スピードは出ませんが、一番力が出るのです。一端走り始めると、加速するため、セカンド、サード、トップギアへとチェンジしていきます。あまり力を使わなくてもスピードを維持できるようになるのです。私達の成長の学びも同様です。最初の大変さをクリアすると、後は意外と走っていけるものです。兄弟姉妹のチャレンジに心から感謝をいたします。
イエスキリストにとっての大きなチャレンジ。それは神の立場を捨て、私たちと同じ人となられることでした。また、仕える者として十字架にかかり、いのちを投げ出すことでした。もしイエスがこのチャレンジを拒否されていたなら、私達の救いはなかったでしょうし、私達は今も罪の中に沈んでいる者でした。しかし、人間的に考えれば、あり得ないことが起こったのです。イエスは私たちの罪の身代りとなり、十字架にかかり、命を捧げられたのでした。「神のあり方を捨てることができないとは考えないで、」という言葉の中に、イエスの決断がうかがわれます。
イエスが見ておられたものは何でしょう。それは十字架の先にある人々の救いと解放でした。また復活の勝利でした。ですから、十字架をものともせず(ヘブル12:2)忍んで行かれたのです。
私達もチャレンジの先にある大きな成長の恵みと祝福に目を留めましょう。チャレンジしなければ何の変化も生れないし、喜びも感動も生れないでしょう。しかし、汗をかき、苦労し、犠牲を払った分だけ、いや、それ以上の大きな成長の恵みと祝福を受ける事が出来るのです。地の塩、世界の光として私達も神様が備えられているチャレンジを受け止めていくものとなりましょう。

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