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NO.193  2012.04.29

 「とりなしの祈り手になろう!」

 

どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。 (出エジプト32:32)

 

会堂の講壇の横に透明な祈りの箱が置かれています。その中には神様に出会って欲しい人たちの名前が書かれたカードが入っていて、心ある兄弟姉妹たちが日夜祈りを捧げています。その中の何人かは、既に教会に来られるようになっておられ、本当に感謝です。とりなしの祈りは働くと大きな力があります。
考えてみれば自分が救われるためにどれだけ多くの人たちが祈ってくださっていたことか。私は高校生の時に導かれたのですが、私を導いた友人が、名前を挙げて、教会の皆さんが祈ってくださっていたことを後で知ることになりました。
私のために祈ってくれている人がいる。そのことは大きな衝撃であり、また感動でした。今までそんなに関わってくださる人はいなかったからです。そのことは私は言うに及ばず、すべてのクリスチャンに言えることです。私たちが導かれていることは決して偶然ではないのです。
出エジプトしたイスラエルの人たちは、荒野の旅の中で不平不満を言い、高慢になり、偶像を作り、数々の罪を犯しました。しかし、神様の憐れみにより、約束の地に入ることができました。神の憐れみの背後に命をかけたひとりの人の祈りがあったことを忘れてはなりません。それはモーセという人でした。本来なら神の裁きが下っても仕方のないイスラエルの人たちのために、モーセは、もし、彼らの罪が赦されないなら、「どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」と言って、自分の命を賭して祈りを捧げたのです。神とイスラエルの人たちの間に立ち、自分の命に免じて彼らを赦してくださいと全身全霊で祈ったのでした。それほど、モーセはイスラエルの人たちをいとおしみ、とりなしの祈りを捧げたのでした。このモーセのとりなしの祈りは神の心を動かすことになったのでした。詩篇の作者も「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」(詩篇106:23)と言っている通りです。
今、とりなしの祈りが最も必要とされている時です。日本の国のために、社会のために、傷ついた人のために、罪から抜け出せず苦しんでいる人のために、とりなしの祈りが求められているのです。すべてのクリスチャンはとりなしの祈りの使命が与えられているのです。
あなたが救われるために日夜、涙を持って祈ってくださった方がいたとするなら、今度はあなたや私が、その祈り手になろうではありませんか。あなたの、人を慈しむ心を祈りに転換してください。あなたの祈りで救われる人が起こされるのです。直接伝道をすることは出来ないかもしれません。しかし、とりなしの祈り手にはなることができるのです。あなたの祈りが、教会を支え、牧師を支え、人々を救いに導くことになるのです。キリストは生涯にわたってとりなし手として生きられました。十字架はそのとりなしの究極でした。同様に、あなたも、とりなしの祈り手として主に用いられるのです。
呻き叫んでいる魂がいます。誰がその魂のために祈るのでしょうか。誰がそれに応えるのでしょうか。
あなたのとりなしの祈りが求められているのです。

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