閉じる

NO.190  2012.04.08

 「復活の世界に生きる!」

 

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、
私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
(Ⅰコリント15:19-20)

 

ハッピーイースター!主の復活を共に祝う事の出来る恵みを感謝いたします。
2000年前、主イエスキリストは十字架に架かられましたが、三日目に死を打ち破ってよみがえられました。以来教会では毎年この復活を記念し、また、日曜日ごと共に集まり主イエスに礼拝を捧げているのです。なぜ日曜日に礼拝を捧げるようになったかと言えば、この主の復活された日に由来するのです。毎週日曜日に集まるごとに、主のよみがえりを心に覚え、復活の信仰に生きるよう心がけてまいりましょう。
復活は何を意味するのでしょうか。それは第一に死に対する勝利です。罪の力が私たちに死をもたらすとしても、キリストを信じて生きる者は死の力に打ち勝たれたイエスの勝利が与えられているのです。たとえ私たちを落ち込ませるような出来事に直面していても、あるいは悲しみや苦難が襲ってきたとしても、主イエスは死に打ち勝たれたのですから、このイエスの勝利があることを信じましょう。イエスの十字架と復活の勝利があることを忘れないようにしましょう。既に主は勝利されたのです。今日、死に対して「お前の棘(トゲ)は砕かれた」と宣言しようではありませんか。
第二に主の復活は勝利の人生の約束でもあります。私たちは2000年前にキリストが甦られたことを単に記念して復活を祝っているのではないのです。この甦られたイエスは今、現実に生きて働いておられるのです。
信仰とはこの復活のイエスのリアリティー(現実性)に生きる事なのです。教理としての復活ではなく、今ここに働いておられる復活のキリストの臨在を体験して生きるのが信仰です。
 ルカの福音書の24章には復活されたキリストがそばに来られているのに、目がふさがれてわからないで暗い顔をしている弟子達の姿が出てきます。彼らは復活されたキリストがそばにおられるのに、彼らの中ではまだイエスは死なれたままだったのです。女たちの空っぽの墓の証言を聞いても、御使いが現われて復活されたという証言を聞いても、信じられない。深い悲しみの支配の中に生きていたのです。
 私たちも同じようなことがしばしば起こります。キリスト信仰は主イエスの復活信仰であるにもかかわらず、私たちの中ではイエスは復活されていないのです。問題の大きさの現実性の方がイエスがよみがえられたという現実性よりも、勝って心を支配してしまっているのです。
聖霊の助けをいただきながら、私たちは甦られてイエスとの交わりを持ち続ける者となりましょう。祈りと御言葉に絶えず触れながら、聖霊の促しに耳を傾けていく時に、復活のキリストの現実性を体験することになるのです。イエスは決して私たちを見捨てられることはありません。弟子達も復活のキリストとの交わりを通して初めて、甦られたキリストを体験するのでした。
 キリストとともに復活の世界に生きる者とされていることを互いに自覚いたしましょう。サタンの策略に騙されないように、主の復活の勝利をしっかりと握って、よみがえりの主を宣言していこうではありませんか。

閉じる