閉じる

NO.188  2012.03.25

 「愛することは重荷を負うこと」

 

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
(ヘブル13:7)

 

今は受難節です。イエスが架けられた十字架の意味をしっかりと受け止めるときです。イエスの十字架は私たちに様々なことを教え、気づかせてくれます。その一つはこの十字架にはイエスの愛が刻まれていると言うことです。私たちを愛し、私たちの罪の身代わりとなって死なれたのがイエスでした。イエスの命をかけた愛が十字架には刻まれており、私たちへの熱い愛の実体がそこにはあるのです。
 この世の中には愛と言う言葉ほど氾濫している言葉もありません。そこで語られる愛は、感情的なもので、うつろぎやすいものです。ある時は愛しているといいながら、ある時は愛していないと言ってしまいます。その人の気分で愛が語られ、状況と共に愛が変遷していくのです。愛が語られることで傷つき、愛と言う言葉で錯覚し、後でこんなはずではなかったと後悔したりするのです。それらの愛は男女の愛として語られることが多いのです。しかし、どちらにしても人は愛に飢え渇いた存在であることは事実です。本物の愛、本当の愛。それを探し求めて人は生きているとも言えるかも知れません。イエスはそのような私たちにご自身の愛を十字架を通して余すところなく示してくださいました。
イエスが十字架で示された愛。それは第1に与える愛です。ご自分のいのちを私たちの罪の身代わりに差し出され愛してくださった究極の愛です。私たちの愛は要求する愛です。これだけ愛されたら愛しましょうという条件付の愛です。しかしイエスは無条件で愛してくださいました。あるがままでそのままで、さっくりと私たちを受け入れてくださったのがイエスキリストなのです。
また、第2に私たちが負っている重荷を喜んで負ってくださる愛です。私たちは都合が悪くなると変ります。自分の思いに相手が十分に応答してくれないと思いがさめてしまいます。なぜ自分だけが犠牲を負わなければならないのかと、不平や不満が出てきます。それは、愛と言う言葉を使っているだけで、自分の自己満足のために愛しているだけなのかも知れません。
しかし、イエスは一番面倒な十字朱にかかられたのです。誰がそこまでするでしょうか。適当なところでやめておくことだって出来たことでしょう。しかし、イエスは私たちの抱えている重荷や痛みをご自分のものとして負ってくださったのです。それは私たちがその苦しみや重荷を負わなくても良いためでした。十字架につけられた犯罪人の罪をも負って、「あなたはきょう、私とともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)といってくださるお方なのです。
私たちが語る愛の実体はどのようなものでしょうか。点検してみましょう。口先だけで愛を語るのではなく、「愛する」行動を取りましょう。そのほとんどが、楽で楽しいものではなく、辛く、苦しく、重いものでしょう。犠牲も伴います。体力や精神もすり減らすことでもあるでしょう。でもそこでしか見えない愛があることを忘れてはならないのです。イエスのように誰かのために負う重荷こそが愛の実践であることを覚えようではありませんか。イエスがあなたの重荷を負われたように。

閉じる