閉じる

NO.182  2012.02.19

 「パラダイムシフト」

 

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 
(Ⅱコリント3:18)

 

明治初期の宣教師と当時の青年たちの集合写真です。新しい国作りのためという政府の意図もあり、医療や教育などを教えるために次々と宣教師が日本を訪れ、福音宣教と共に日本近代化のために大きな役割を果たしていきました。大きく時代が変わり、新しい国作りのための希望に溢れていた時代です。
しかし多くの日本人にとっては同時に大きなライフスタイルの転換期でもありました。写真にはまだちょんまげ姿の青年たちが多数写っています。長年のまげに、着物というスタイルで生活してきたのですから、それを変えるだけでも大きなチャレンジだったことでしょう。あまりに急激な変化についていけず、反目した武士たちも多くいたに違いありません。しかし日本はそれらを乗り越え見事にその変化を受け入れ、近代化が加速していきました。
 「パラダイムシフト」という言葉があります。パラダイムとは「ある事物や実体を理解し、説明するパターンもしくは地図」のことです。皆一人一人自分なりの事物を見る目、すなわち自分のパラダイムを持っているのです。このパラダイムシフトとはこの価値観の変化をいうのです。しかし、それは私たちの今までの価値観や生き方、また文化に変化をもたらせるということですから、古い価値観への固執やせめぎ合いが当然起こってきますし、変化には時間がかかります。
 イエスが十字架につけられた理由の一つに新しい神の国の到来を受け入れることの出来なかった人達の反発とねたみがありました。しかし、それはイエスの時代の人達ばかりではありません。私たち一人一人も同じように今までの考え方や理解の枠があって、それを変えることに戸惑いや戦いを覚えるのです。
 「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあるように、聖霊なる神様は私たちが主イエスキリストのお姿に変化することを求められます。この聖書の原則に従ってパラダイムシフトをしていくことが求められるのです。イエスに似るとは外見のことではなく、イエスの生き方、考え方、行動、価値観、パラダイムに生きると言うことに他なりません。
 イエスは絶えず祈られながら、父なる神様の御心を求められました。天の父が語られること以外は語られないようにされました。人々がイエスを見るとき、そこに父を見ることが出来るようにされたのです。
天の御座を離れ、この地に来られ、自分の思いではなく、父の御心に従って十字架に架かられたイエス。このお方こそパラダイムシフトをなされたお方なのです。あなたの成長の変化をとどめているものはないでしょうか。今までの信仰生活の在り方から神は更に一歩成長を目指してシフトすることを願っておられるのです。

閉じる