閉じる

NO.178  2012.01.15

 「一歩、一歩、前進しよう」

 

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、
おとなになったときには、子どものことをやめました。
(Ⅰコリント13:11)

 

子どもの頃、何かに夢中になったことはありませんでしたか?私は田舎にいましたから、夏になると一日中、セミを捕っていた記憶があります。また、ビー玉遊びに興じて、一事は空き缶に一杯の色とりどりのビー玉を集めて宝物のようにしていたことがありました。以前、田舎の庭をほっていたら昔埋めたビー玉が沢山出てきたことがありました。そういえば、宝物のように大切にしていたなと昔のことを思い起こしたことでした。では、今もそのビー玉を宝物として大切にしているかというと、もちろんそんなことはありません。それはとっくに処分してしまいました。年令がかさむにつれてもうそれはなくてはならない大切な物ではなくなったからです。
 私たちの人生においても同じようなことが言えるのではないでしょうか。かつては大切だと思っていたものや夢中になっていたものが、更に素晴らしいものに出会うことにより、それほど大切なものとは思えなくなってしまうのです。
 一人の兄弟が感慨深く話してくださいました。「先生、以前の私はその日のうちに家に帰るなんてことは殆どありませんでした。仕事が終われば、接待と称していつも飲み歩いていたんです。それがいつの間にか日課のようになり、帰りは午前様でした。からだを心配する家内の事など気にも留めず、そうすることが男の甲斐性のように思っていました。本当に愚かでした。体を壊して、初めて家内が祈っていてくれたということがわかり、家内の薦めで教会に通うようになりました。今はもうお酒を飲むこともありませんし、以前のような生活が考えられません。今は、仕事が終われば、家に帰るか教会の祈祷会に出て、またご奉仕をします。日曜日には礼拝に通い、人々のために祈ったり交わったりするのが一番の楽しみです。」
 神様に変えられる人生ほど素晴らしいものはありません。信仰生活は変革のプロセスです。一歩ずつ変えられて行くことを期待し前進していきましょう。赤ちゃんから子どもへ、子どもから青年へ、青年から成熟したおとなへと変えられて行くのです。おとなになっても、赤ちゃんのように哺乳瓶を口にくわえているようなことはないでしょうか。お乳から離乳食へ、軟らかい食べ物から堅い食べ物へと食事も変っていくように、私たちの人生も神様の喜ばれるような生き方へと変えていただくものになりたいと思います。
 もちろん長い人生の歩みの中には途中で行き詰まったり、立ち止まったりすることもあるでしょう。しかしそこにも神様の御手があり助けがあるのです。神は決して見捨てられず見放すことはなさいません。キリストとともに、日々変えられて行く者となりましょう。一日の変化を目測は出来ないかも知れません。しかし着実に変えられているのです。1年後、3年後、5年後、10年後、神は大きな変革を成し遂げてくださるでしょう。あなたには偉大な可能性がある事を忘れないでください。

閉じる