閉じる

NO.161  2011.09.18

「仕える喜び」

 

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。
ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛を持って互いに仕えなさい。」
(ガラテヤ5: 13)

 

先日、葬儀をさせていただいた三島の大川省子姉妹のお証を聞かせていただきました。姉妹を通して沢山の方々が福音を聞き、今までに50名以上の方々がイエス様を信じられたそうです。今もまだ、洗礼を受けるのを待っている10名以上の方がおられることをうかがっています。どのようにしてそのような伝道ができたのでしょうか。本人に伝道の賜物があったから、と簡単に片付けることは決してできないように思います。
葬儀の合間にご主人と交わした会話の中にその鍵の一つを見いだしたように思いました。「彼女は夜中でもあの方の所に行かなければと思い立ったらジッとしておれないんです。すぐに私を運転手にして会いたい人の所にまで出かけていくんです。夜中に訪問される相手も最初は迷惑そうな顔をするのですが、彼女の思いが伝わるのか、朝まで相手と話し込んで祈って帰るんです。そんなことが何度もありました。その間私は車の中で寝ているんですけどね。それで彼女に聞いたんです。『あなたは人と会うのが好きなんだね。よくできるよ。』すると『わたしだって疲れているし、本当は行きたくないのよ。だけど行きなさいと言う内なる声がすると行かなければならないと思うの。』」そのお話を聞きながら、彼女の中にある神様の声に聞き従うこころ、また相手を思う愛があるのだと思わされました。相手に仕えるとはキリストにある愛の行使に他ならないことを思わされました。
今学んでいるクリスチャンの信仰生活の基本「車輪の生活」では「仕える」ことが非常に重要です。仕えるためにはへりくだらなければできません。自分がしてあげている。自分がやってあげている。と言う感覚では奉仕はできません。必ず高ぶりが生れ、行いに対する正しい評価を相手や周りに求めたくなるからです。仕えるためには「自分に死ぬこと」が求められます。どのような周りの反応があってもキリストのために、相手の救いのために、自らを捧げることなのです。
 教会には様々な奉仕があります。目につく奉仕もあればそうでない奉仕もあります。しかし、互いに愛を持って仕えあうことで、教会は建て上げられて行くのです。自ら捧げて奉仕に取り組む人は、決して誇りません。周りを立てます。前に立つことよりも、後ろに立ち仕えることを求めます。人を建て上げるために犠牲を払うことを惜しみません。そのように仕え合うのが教会であり、キリストの体です。
 互いに環境も経験も年令も性別も違う者達がキリストの体の共同体を形成しているのですから、お互いがみんな違うのです。愛を持って仕えあうことなしには教会は建たないのです。
一人一人この仕える喜びを体験しようではありませんか。あなたの払う愛の労苦で人が救われ、慰められ、勇気を与えられ、キリストに更に近づくようになるのです。キリストのかおりと麗しさが私たちの奉仕を通して醸し出されていきますように、互いに祈りあい、仕え合ってまいりましょう。

閉じる