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NO.157  2011.08.21

牧師館より「キリスト中心」

 

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ人への手紙2:20)

 

信仰生活を車輪にたとえて「車輪の生活」定着させようと前回記しました。その中心はキリストです。キリストご自身を中心軸にして人生が回るようにしていくことが私たちの人生の大きなテーマです。
「そんなことはあたり前だ」という前に、実際にそのように生きているかどうかを問うてみなければなりません。なぜなら、知っていることと実践していることとは違うからです。
ユダヤにおいては知っていることはイコール実行していることを意味いたしました。実践できていなければ本当の意味で知っていることにはならないのです。そう考えると実は知らないことばかりが私たちの人生ではないでしょうか。
特にキリスト中心の生活は私たちの人生の価値観の転換を意味いたします。今までは自分中心に生きてきたのです。その生き方から今度はキリスト中心に生きていくのです。当然のこととして葛藤が生れます。きしみや戦いが生れるのは当たり前です。今まで自分の生きたいように生き、したいようにしてきたのです。しかし実際生きたいように生きられたかというとその反対です。したいようにすればするほど、思っていたのとは違う人生を歩んでしまったのが私たちの人生でした。だからキリストに救っていただき、罪の生活から解放されたのです。しかし救われたからと言って、瞬時に古い生活からキリスト中心の生活に方向転換でるかというとなかなかそうはいきません。いつの間にか古い自分がむくむくと出てきて、過去の生き方に引き戻そうとします。古い自分が完全に死んではいないことに気づくのです。
冒頭の御言葉によれば、信仰生活は古い自分を十字架につけ、自分が死に、キリストが生きるようになる明け渡しのプロセスであると言えるでしょう。それは生涯の歩みであり、日々聖霊に信頼して生きる生活なのです。自分の信仰を点検し、キリスト中心に生きているかを自問自答してみましょう。
キリスト中心のライフスタイルは「キリストに自分の歩みを問う生活」です。神の「導きを求める生活」ともいえるでしょう。またそれは「キリストに従う生活」でもあります。自分の考えではなくキリストのみこころを知ってそれに生きる生活です。キリストが願っておられる使命遂行を目指して生きる事でもあります。また、「キリストの恵みに感謝する生活」であり、「キリストの愛に応えて生きる生活」なのです。常にキリスト中心を志向していくようにいたしましょう。その時聖霊なる神様が豊かな助けを与えてくださるのを体験することができるのです。

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