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NO.154  2011.07.31

「神の恵みの選びに生きよう」

 

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。
すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
(Ⅰコリント1:28-29)

 

夏の高校野球甲子園大会を目指して続々と代表が決まっています。震災にあった東北各県からも困難を乗り越えて代表の切符を手にした高校が名乗りを上げています。各代表の高校球児たちは苦しい練習を重ね、トーナメントを勝ち抜いて得た甲子園の切符ですから努力が報われたことで喜びもひとしおでしょう。
手前みそですが、かつて理事をしていた聖光学院が今年も5年連続で甲子園の切符を手にいたしました。聖光学院は伊達町ですが、今放射能のホットスポットとして不安を抱えています。その中での出場に町に元気と励みが与えられればと頑張ったのだと思います。
さて、私たちキリスト者の救いは甲子園出場とは比較はできませんが、神様の選びという点から考えると努力して得たものではないことを心に留めなければなりません。また、血筋が立派だから選ばれたのでもありません。何か特別な分野における特殊な能力を持っているから選ばれたのではありません。人望があり,人の役に立ち、みんなから尊敬を受けていたから、神様が選んで下さったのでもありません。私たち人間が考える選びのどの理由にも当てはまらないのが私たちの救いでではないでしょうか。
聖書は「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」と記しています。結局この世の基準には当てはまらないようなものを神は選ばれたというのです。それは恵みとしか言い様のないものです。いや恵み以外何ものでもないのです。
ところが私たちはそれほど取るに足りないとは思っているでしょうか。見下されているとは感じてはいないのではないでしょうか。もし、自分自身のことを本当に至らない者であり、自分のような者が救われるとは恵み以外ないと思えるとしたなら、私たちは実際ジッとしておれないほど感動と喜びがあふれてくるはずです。ところが何か問題があるとすぐに躓いたり、つぶやいたりするのが私たちです。それはキリストの救いを私たちの基準の延長上において見てしまうために、期待通りのことが起こらないと不満やつぶやきが出てきてしまうのです。
神の救いは私たちの思いとは違います。「有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」とあるように神は、神の見方で私たちを選ばれたのです。その基準は「この世の取るに足りないもの」であり「見下されている者」なのです。これが神の選びなのです。もし謙虚にその自覚を持つことができるなら、神の救いを手にすることができるのです。
また、それだけではありません。私たちに神の子としての特権を下さったのです。(ヨハネ1:12)更にはその祝福を持って私たちが神の使命に生きるようにして下さっているのです。
神に選ばれ、神の特権に預かったのは、私たちが神の使命の遂行者として、この世に神の救いの恵みを証する証人として用いるためなのです。私達はこの驚くべき神の恵みによる選びを心から感謝して、喜びを持って終わりの時代に主の証人として生きるものとさせていただきましょう。

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