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NO.151  2011.07.10

「行動を起こす勇気」

 

そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、
イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。
それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
(ヨハネの福音書19:38)

 

以前息子が音楽プレーヤーを買ったことがありました。ところがそのプレーヤーのイヤフォンが使えなくなってしまったのです。ちょうど1年保証内でしたので、申し出れば新しいものと取り替えてくれるのですが、なかなか彼は取り替えにいこうとしません。色々なことを聞かれるのがいやなのか、申し出るのがいやなのか、とにかくすぐに動かないのです。私の持っているイヤフォンを貸してくれと言うので貸したのですが、やはり専用のものとは全然音が違うようでした。「だったら早く,取り替えるために修理受付に行けば」というのですが、なかなかそうしないのです。結局何週間も我慢して保証期間が切れるギリギリのところで、「一緒について行ってくれないかな」ということで、やっと一緒に行って交換してもらうことができました。
 では私たちはどうでしょうか。子どもだから躊躇する、とばかりは言えません。状況が変われば私たちも同じように行動をためらうことがあるのではないでしょうか。行動すればよいことがわかっていてもなかなか決断できない。行動に移す勇気が出ない。考えてみればそんなことがしょっちゅうあることに気づかされます。私たちの変化は行動の習慣から生まれるのです。その変化に向けた行動も必ずはじめの第一歩があります。その第一歩を踏み出すには本当に勇気がいるものです。環境のせいにしたり、時ではないと先延ばしにしてみたり、人のせいにしてみたり、言い訳がましい態度を取ってしまうのです。
聖書にアリマタヤのヨセフという人が出てきます。彼はイエスの弟子だったのですが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していました。恐らく彼はそれなりの地位があったのでしょう。社会的な責任を色々と負っていたのかも知れません。イエスの弟子であると言うことがわかると、人々はどのような態度を取るかと恐れたに違いありません。
ところがそんな彼が勇気を持って決断するときが来ます。それはイエスが十字架にかけられた直後のことでした。イエスの体を自分の墓に収めたいとピラトに申し出たのでした。その申し出は相当の勇気が伴ったことでしょう。ピラトにその旨を伝え、その理由を述べなければなりません。そのことは彼がイエスの弟子であることの表明に他なりませんでした。
彼を動かしたものは何だったでしょうか。それは恐らくイエスの十字架の愛の迫りではなかったでしょうか。自分の命を捨てて人々の救いの道を開かれたイエス。そのイエスの熱い愛の迫りが彼を動かしたに違いありません。自分の対面や事情に縛られて、硬直化していた彼の神への姿勢が溶けたのです。恐れを超えて決断させた神の愛の迫りこそ彼の人生を大きく変えていく力となったのだと思います。
  私たちも同様に神様の愛の迫りを覚えるときがあります。赦すことへの迫り。正しいことを言うことの迫り。信仰の決断の迫り。奉仕への迫り。祈る事への迫り。一歩踏み出す迫りがあるとき素直に従える者になりたいと思います。勇気を持って信仰の第一歩を踏み出す。その時に神様の道が開かれてくるのです。あなたにとって決断することは何でしょうか。神からその勇気を与えられて踏み出してみませんか。

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