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NO.041  2009.05.31

 「祝福と隣り合わせ」

 

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ福音書1章15節)

 

 神を信じる信仰は「先取り」する信仰と言えます。まだ現実化していない事柄をあたかも今実現しているかのように信仰によって見ることとも言い換えることが出来るでしょう。ところが、私たちが描き見ているものはその反対のことが多いのではないでしょうか。困難が続くと、このままでは人生がだめになってしまうのではないかと思います。全く関係のない国の不景気までも、自分の不幸の要因として結びつけてしまったりするのです。
 先日も出張先である方と交わりを持っていました。「これで就職の面接10回受けましたが、もう永久に就職できないのではないかと思ってしまいます。」と言われていました。その気持ちもよくわかります。しかし、決してあきらめないことです。実際11回目で就職が決まるかも知れないのです。「まただめかもしれない」と思って面接を受けるのと、「今度は大丈夫。良い出会いがあるぞ。」と期待して受けるのとでは意識の差が大きく出てしまいます。私たちの心の中に有る思いが私たちの態度や言動に出てくるのです。
 「神は私のために素晴しい人生を必ず備えておられる。」そう信じて、与えられた人生を生きていきたいものです。一度しかない人生を、感謝して喜んで生きることも出来れば、自らが悩みを生み出して、「どうせ何もかもうまくいかない」と暗く生きる事も出来るのです。
 ちょうど私たちの人生をコインの裏表だと見立ててみてください。片面を見れば困難や苦しみばかりが見えるかも知れません。しかし、その裏側には大きな祝福がついているのです。ですから、困難と祝福は隣り合わせになっているのです。自分に起る様々な試練は祝福を運んでくる前兆なのだと考えてみてください。
 イエスの宣教の第一声は神の国の到来の告知でした。「時は満ち、神の国は近くなった。」と宣言されたのです。この時のイスラエルの状況は最悪でした。ローマの圧政。ヘロデ王の搾取。人々は困難の只中にいました。しかしイエスはもう一方の面からその時代を見ておられました。それは神の国の視点です。イエスは「時が満ちた」ことを明確に悟っておられたのです。神の国が近くなり手を伸ばせば誰でもそこに入ることが出来る時代が到来したと認識しておられたのです。この認識こそ私たちが持つべき認識に他なりません。
 その神の国に生きるためにイエスが求めたことは「悔い改めて、福音を信じる」と言うことでした。悔い改めとはもちろん罪の悔い改めを指すわけですが、同時にそれは生き方や物の見方の方向転換を意味していました。方向転換して、イエスの福音の祝福の中に入りなさいと進めておられるのです。イエスを信じる者として、神が現実に備えておられる祝福がそこにあるのです。現実の困難が増せば増すほど主の祝福が近づいていることを信じようではありませんか。 あなたは祝福と隣り合わせに立たされているのです。神の備えておられる大いなる祝福の中に臆することなく大胆に突入してまいりましょう。

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