閉じる

NO.002  2008.09.04

■そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを
  追い求めましょう。(ローマ人への手紙14:19)

 

 先日あるクリスチャンのから久しぶりにお電話をいただき、証しをしてくださいました。その方は洗礼を受けられて間もなく教会に行かれなくなったことがあるそうです。同じ教会員で知り合いの方が、折り合いの悪い教会員のかたを批判して教会を出てしまったのだそうです。その方もついついその人の態度に影響を受けて、教会に行かなくなりました。自分で聖書を読めば、信仰を保ち続けることができると考えたのでした。

 

  ところが、一ヶ月くらい経つと、気持ちも落ち込み、聖書が頭に入ってこなくなったそうです。いろいろ悩み祈った結果、やはり教会に帰ろうと思い、思い切って帰ったそうです。最初は批判対象になった教会員の方への偏見がなかなか抜けなかったそうです。でもイエス様が自分を救いこの教会に置かれているということは互いに愛し合うことを学ばせることなのだということを示され、真剣に「愛するものに変えてください」と祈り始めたそうです。そうこうするうちに自分の信仰の視点が人を見るところから、イエス様を仰ぎ見ることに変えられ、聖霊の豊かな思いで満たされるようになりました。するといつの間にか、その方のことも気にならなくなり、その方の良いところを見ることができるように変えられたそうです。現在その方は実家の方に戻られて家業を継がれるようになり、近くの教会に転会されましたが、今の教会でもその経験が生かされていて、自分に合わないように思う人がいるとき神様は自分の愛することの枠を広げるために、その方をおいておられるのだと思えるようになったそうです。

 

  その証を聞きながら私たちも同じようなことを経験することを覚えました。自分の弱さの故についつい他の人を裁いてしまうのです。特に信仰に熱心になればなるほど、自分の信仰の確信が人を裁く方向に向きがちになるので気をつけなければなりません。「クリスチャンはこうあるべきだ」という思いが強いと人を裁きやすいので特に気をつけましょう。

 

  教会は気の合うもの同士が集まる同好会や倶楽部ではありません。生い立ちも、環境も、教育も、能力も、性格も違う者たちが、主イエスキリストの救いに預かり、愛の共同体を形成しているのが教会なのです。キリストの教会という体に加えられていることの意味をもう一度考えてみましょう(第一コリント12章)。信仰の強い人もいれば弱い人もいるのが教会です。互いにいたわり合い、支え合うのが教会です。もし何か心にさざ波が立ち、人に対して不満を抱くようなことが起こってきたならば、それはあなたにとって「愛することのチャレンジの時」だと考えてみたらどうでしょうか。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」(箴言27:17)ともあります。互いの違いを認めつつ、互いを受け入れ、愛し合うことのチャレンジを受け止めていただければ幸いです。

 

 教会生活はあなたを「愛の人」にかえるための信仰成長の道場のようなものです。いっぱい投げられ、受け身を覚え、愛することへチャレンジすることをあきらめない。そこにあなたの信仰の成長が隠されているのです。

閉じる