■証し
キリストを信じる私たちが、そうでない人たちから奇異の目で見られることの最たる点は、「イエス様が十字架につけられ死んで葬られたのちに復活し、弟子たちの前にその御姿を現された。」ことを信じているという
ことではないでしょうか。私も成人して信じた家族で初めてのクリスチャンでしたから、それまで
は復活は現実の出来事からかけ離れた宗教の世界で語られる想像的な話程度にしか理解できませんでした。もちろん家庭で聖書の話が話題になることなどなく生きてきていました。
それどころか、洗礼式の時に信仰告白をしても、なんとなく牧師先生の言われるままに、一緒に式文を唱えたといった感じで、告白をよく理解しないままの状態でクリスチャンになっていました。もちろんイエス様を信じた喜びには溢れていましたが。
今は、イエス様なくしては救いに預かれないと確信し、その墓の中から蘇られたという復活信仰もそれを現実と認めて、そのことを信じる以外に生きることはありえないと、生活を180度変えられています。ですが、今自分を思い返してみて、いつイエス様が復活して弟子たちの前に現れたことを真実とわかるようになったか、その時を覚えていないのです。
ただ一つ分かるのは、その真実を話してくれた友が教会にいたということです。それら友に親しみを覚えよちよち歩きのクリスチャンとして共に過ごす中、「主は復活され、弟子たちの中にその御姿を現された」というこの信仰の土台となる真理を修養会やプライベートな付き合いでやんわりと聞かされ続けていたのだと思います。そう思うと、わずか1%もいないベストをはじめとする日本のノンクリスチャンに救われてほしい望みの実現を託されているのは、私たち以外、いないことになるのです。100人のうち一人しかいない私が語らなければ、日本にリバイバルは起こらないという自覚が必要なのです。(もちろん働き続けて下さっている神様があってのことですが)。私はイエス様の大宣教命令とは、語ることをやめてはならないということだと理解しています。