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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.356 2024.04.28

■黙想エッセイ

 

人生には得体のしれない不安と恐れが絶えることなく続く。そうするうちにいつの間にか人生は死に直面するようになる。原初的な恐れは、死後にある神様の審判があるからである。しばらく生きる人生であっても、夢を成し遂げるために必死だが、死の前には結局すべてのことが空しいということが分かるだろう。
人生の主人を知らない人の人生は、自分自身を失った空っぽなものに過ぎない。
自分を知らない空っぽの知識、空っぽの人生である。一生を生きても無益な人生である。
人生に満たすべきものは何だろうか?どうすれば満たされるだろうか。真に人生を満たすことができるのは、まさにイエス・キリストである。人生の主人となるキリストがいない人生は、生きていても生きていることが虚しいだけである。イエス様だけが人生の必要を満たしてくださる。
主イエス・キリストは健康な自画像を回復して下さり、私を私になるようにしてくださる。その方自体が目標であり人生の答えである。イエス・キリストを知れば、人生のすべての問題が解決される。人生は、その方向が分からなくて、自分自身を知らず、またどのように生きるべきかを知らないところから始まる。それゆえ、人間関係はしょっちゅうねじ曲げられて空虚感だけが持続する。
一寸先が分からない人生だが、主は人生の必要を満たしてくださり、渇いた人生を豊かに潤してくださり、傷ついた人生をきれいに治癒してくださる。内側で泣いている弟子たちの必要を知っておられ、そのすべての必要を満たすために、その気配も感じさせることなく訪ねて来られた。恐れを追い払い、真の平安を下さるために、何ら予告もなく突然弟子たちの時間の中にはいって来られたのである。

 

こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」ヨハネ20:20-21

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