閉じる

 

◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.335 2023.12.03

■黙想エッセイ

 

私は牧会をしているうちに、だんだん単純な思考になってきたように思います。「先生の願いは何ですか」と聞かれれば、私は次のように答えます。「それは簡単です。私への主のみこころがなされることです。 なぜなら、何よりも神様のみこころが正しく、最も美しく、私のためになることを知っているからです。たとえば、病気になったとしましょう。そうしたら、癒やしてくださいと祈るでしょう。しかし、もっと大事なことはこの病気を通して神様は私がどうすることを望んでおられるのか、ということです。神様は私を癒やすことを望んでおられるのか、それとも、みもとに召そうとしておられるのか、どちらがみこころなのでしょうか。私の願いはただ、神様のみこころがなされることなのです。」
信仰が成熟するほど、祈りを通して神様のみこころにすがらなければなりません。
年を取るにつれ、そのような祈りが必要になっていきます。神様のみこころだけを求めて自分の願いがなくなるということは、思考も意志もないロボットのようになるという意味ではありません。徹底的に神様に信頼するという意味であり、私の意志よりも神様のみこころのほうが重要だという意味であり、私の思いが次第に神様のみこころと一致していくという意味です。
「私は神様のみこころが示されたとき、それに従います。自分の考えもありますが、 神様の偉大で明確なみこころに従います。」と告白しましょう。このような告白は、神様に心から信頼する人から出てきます。神様はご自身の主権を完全に認める人に対して責任を取ってくださいます。

閉じる