■黙想エッセイ
人々は悔しい思いをしたとき、怒りが込み上げてきます。正当な代価をもらえないとき、信じていた人に裏切られたとき、嘘の噂が飛び交い誤解されたとき、善意が捻じ曲げられたとき、怒りを覚えます。時が経ってそのわだかまりが解消されることもありますが、そうではないときもあります。公正な待遇を受けられないことが怒りの種となり、それは果てしない挫折へとつながります。
ほとんどの人は、神様のさばきを口にすることを喜びません。神様が無条件に赦し、最後まで愛してくださることだけを望みます。しかし、この世で不当に思えることや不義を経験すると、 人は怒って「どうして何もしてくださらないのか」と神様に文句を言います。もし神様が赦しと愛だけの方なら、そのように悔しがる私たちに「何を悔しがっているのだい。赦し、愛さないといけないよ。互いにとって良いように終わらせなさい」と言われるでしょう。
しかし、神様は私たちの悔しさを分かってくださるだけでなく、解決してくださる方です。神様の公正なさばきの前では、永遠の不義も、永遠の悔しさも存在しないのです。神様は義をもってすべての人をさばかれます。私たちが悔しい思いをしながらも神様の義を信じて行動するなら、神様のさばきは希望へと変わるでしょう。しかし、そうでなければ、神様のさばきは恐ろしい結果を生むだけです。神様の公正なさばきを信じるとき、私たちは不義と妥協しなくなります。神様のさばきを信じるとき、怒りや悔しさから解放されるでしょう。