■黙想エッセイ
ある青年が憂い顔で牧師のもとへとやって来ました。「先生、私は生きる意欲を失いました。事業に失敗して全財産を失い、みな私から顔を背けます。死にたいです」 青年の言葉を聞いた牧師は、このように話しました。「あなたはすべてを失ったわけではありません。罪の赦しを失いましたか。永遠のいのちを奪われましたか。ただ意欲を失っただけです。あなたに信仰があるなら、神様の御前で生きてみてください。信仰があれば、意欲はいくらでも回復できます。」 そして牧師は一節の聖句を読みました。
「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く」 (箴4:23)。
世の中で何かを失うことは失敗ではありません。神様の御前に出て行き、祈ることによって私たちの視点を変えることができるなら、それは希望の始まりです。
肉体と心の病の前で絶望したとき、神様にその問題を持って行き、癒し主である神様を見上げましょう。そうすれば、希望が生じます。これが、私たちが祈るべき理由です。
希望は人生を方向転換するところから始まります。すべての人が死に向かっているときでも、私たちは希望に向かって進むことができます。私たちが希望を持てるのは、私たちのすべてを知っておられ、細かいところまで働かれる神様の御前に私たちの問題を持って行き、祈ることができるからです。神様の点で物事を見るとき、私たちは最も深い絶望の中でも希望を見出すことができるのです。