■救いの証「 私に起こったキリスト・イエスとの出会い」②
初めて聞いたメッセージを今も覚えています。マルコによる福音書4:30~32「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。それは、からし種のようなものです。地に撒かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、撒かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」この風景を想像し、神の国っていいな~素晴らしい!と感動しました。全く初めて聖書を読む私に神様は神の国の喜びを通して親しむように導かれました。
その後、平日の女性会に誘われ、3,4人の姉妹とマルコ10:42~43「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り取り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。」を読み、どう思いましたか?と聞かれた時、「ああ、夫のような人はゲヘナに落ちてしまうと思う…」と私の口からため息のように出ました。そうしますと、一緒に居た姉妹たちがそれは、大変、と私の手を取り、一生懸命祈り出し、「ご主人がゲヘナに投げ込まれませんように」と、夫のために、涙ながらに祈り始められたのでした。今まで、友人に、夫とどうしたらいいんだろう、と悩みを相談すると、困ったね、と一緒にため息をつくか、しょうがない人だね、でも、あなたが選んだ人だし仕方ないよね、という繰り返しでした。こんなふうに夫のために、それも私の手を取って涙ながらに祈られて、これもまた激しい衝撃と共に私も泣けてきました。この仲間に私も入りたい、それはクリスチャンになるということか、とその時に思いが与えられ、5カ月後受洗へと導かれました。
洗礼準備をしながら、今までの人生を振り返りました。小学1年の頃、母親が朝起きなくなり、家事もほとんどしなくなるということが起こりました。その頃からの普通ではない家庭環境で空しさがいつも付きまとっていました。母はいつしか家からいなくなり、手紙一つで、カナダへ行きます。と行ってしまいました。そんな実家暮らしから離れたいと思い22歳の頃、東京浅草の靴作りの専門学校に入ることにして上京しました。なぜ靴か?というと、子どもの頃好きだったテレビアニメのトムとジェリーの間に違うキャラクターのお話をやるのですが、靴屋の昔話で、貧しい靴屋の老夫婦が、注文の靴が間に合わず困りながら眠ってしまった間に小人が現れて作りかけの靴を全部きれいに作り上げた、朝起きると全部靴がピカピカに出来上がっていて、おじいさんとおばあさんは、思わず踊ってしまいました!という話ですが。貧しいながらも老夫婦がかわいい靴を作る姿、小人がおっちょこちょいだけど面白おかしく助けている、嬉しくて踊り出すおじいさんとおばあさん、こういう家族っていいな、という理想があって、靴屋さんの世界ってきっとそんな感じなんじゃないかな、という動機で上京したわけです。(上原 温子)