■黙想エッセイ
私はアフリカ大陸を何度か訪れました。その中のある国で、首都から車で8時間ほど離れた小さな村に行ったことがあります。屋根と壁はあっても、窓や戸がある家がほとんどない貧しい村でした。翌日の聖日、宣教師と一緒に教会に行きました。中は真っ暗で隙間から入る光しかないその空間で、シンプルながらも涙と喜びのある礼拝をささげました。聖書も週報も、映像や音響施設なく、たった一つの太鼓をたたきながら賛美しました。説教をしてほしいと頼まれ、私は熱く説教をしました。通訳をしてもらいながらの説教は、なかなかスムーズにいきませんでしたが、説教が終わると賛美をし、再びみことばを聞かせてほしいと頼まれました。そして、説教をすると、賛美をしては、また説教を聞きたいというのです。その日、私は4回も説教をしました。毎日トウモロコシのパンの一食だけで暮らしている人々が、聖日はその一食を主に献げて一日中礼拝するのです。そのような感激と喜びを、私は豊かな国の信徒には見たことがありません。
子育てをしていると、願っていることをしてあげられる子もいれば、してあげられない子もいます。しかし、多くのものを与えられている子がさらに多くを求め、十分に与えられていない子が満ち足りて感謝しているとするなら、親の心はどうでしょうか。ましてや神様の心はどうでしょうか。与えられているものが何もないかのような人々が感謝して喜びながら賛美するところに、主のみわざがあり、真の礼拝がささげられていました。神様を愛するがゆえに名もなく仕える彼らによって、今も神の国は広げられています。