■救いの証
私は大学時代、何のために勉強を頑張るのか目的を見失っていました。そのため、大学では
色々なことにチャレンジし、多忙な日々を送っていました。大学では教職課程を取り、4年生の時に中学へ教育実習にも行きました。職業として教師になることを考えていましたが、力不足を感じ教師になることへの戸惑いを持ったまま時間だけが過ぎていきました。そのため、自信がなく自分の存在価値がないように感じていました。そんな大学生活でしたが、クリスマスの時期、大学近くの教会で人々が集まっていてなんだか温かな雰囲気を見て、教会に行ってみたいと思い始めました。
その後、就職した職場がミッションスクールの中高一貫の女子高でした。学校では、毎朝15分の礼拝がもたれ、私も時々参加していました。その頃の私は自分に自信を持ちたいと思っていました。そんな中で、再び「教会に行ってみたい」「聖書を読んでみたい」と思うようになっていました。ある時、久しぶりに会った大学の友人に「教会に行ってみたいだよね」と話したら、「私、クリスチャンだから私が通っている教会に一緒に行こう」と誘われました。初めて教会の礼拝に参加した後、新来者歓迎で「君は愛されるために生まれた人」を歌ってくれ、自分の価値を見出せなかった私にとって、「愛されるために生まれた」というのは、素直に嬉しかったです。それまでの私は自分の中に基準がなく、常に迷っていました。人間関係でも、良く見せようと振舞っていましたが、愛していると言ってくれる神様に出会ったことで基準が明確になり、よく見せようと振舞う必要もなくなりました。
洗礼を受けてからは、神様のことを優先させるときに、より生活が順調に進んでいくのを感じました。むしろ、どれだけ必要のない考えや約束が多かったのかが分かりました。救われてからは、自分自身の赦せない心をどうにかしなければいけないことに気が付かされました。私はずっと祖母のことを憎む思いがありました。私のためを思ってでしょうが厳しくされ、父方の祖母であったため、母の足りなさをよく話したり、いろんな人の足りなさをよく話す人でした。そういう話を聞くのは子供心に不快に感じていました。大人になってからは、なるべく関わらない様にしていました。
しかし、神様に出会ってからは、赦さなければいけないことがとても辛く、何度も「赦します」と告白しました。その後、祖母への憎しみが徐々に消え、憐れみの心が与えられました。赦しを通して祖母の足りなさばかりを見ていた私自身の悔い改めにもつながりました。一生懸命だった祖母に対し本当はもっと感謝し、助けるべきだったと思いました。それから祖母に電話をしたり会いに行くようになり色々な話をしました。そして、福音を伝えた時、良く覚えてきたねと言って受け入れの祈りを一緒にすることができました。その後、信仰をもって歩む中で様々なところを通されましたが、真実で変わることのない愛をもって、どのような時も導いてくださった神様に心から感謝をささげます。(井上麻紀)