■黙想エッセイ
聖書は目に見えるものを「自然(nature)」とは言いません。時間と空間、そして、その中にあるすべてのものは、「被造物(creature)」、または「創造物(creation)」と表現しています。それらはすべて、自然に生じたものではなく、神様によって創造されたものだからです。明らかに、自ら存在する方は神様しかおられません(出3:14)。ですから、「自然」という単語を自ら存在する何かだと定義するなら、その「自然」はむしろ神様にふさわしい単語です。被造物を自然に発生した存在だと考える人間によって、この世が自ら発生し、発達してきたという進化論が生まれました。
しかし、人間は決して自然に生まれた存在とは言えず、自らの力で存在することもできません。いのちであられる全能なる方につながっていなければ実を結ぶことのできない存在であり、自ら知恵を発揮することもできない存在です。そのため、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり (ロ-マ1:22)、愚かな進化論を主張するのです。この世には、2種類の人がいます。それは、この世の始まりがどうであったのかを問いただしながら進化論を信奉する人と、この世が始まる以前からおられる創造主なる神様に出会った人です。「夕があり、朝があった。第一日」(創1:5)
私たちクリスチャンにとっては、この世の始まりは漠然としたものではありません。実に明らかです。すべての始まりを、時間と空間を超越しておられる全能者を通して知ったからです。神様は、創造を最後にご自分の仕事をすべて終えられたわけではありません。今も働いておられます。