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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.246  2022.03.20

■黙想エッセイ

 

ある日、「お父さん、小さいときに私を叩いてでもピアノを習わせてくれればよかったのに、どうしてそうしてくれなかったの?」と子どもに言われ、「あの時は、いくらやれって言っても、絶対にやらないと言い張ったじゃないか」と答えました。ところで、私たちは、神様に似たような質問をすることがあります。「神様、私を打ってでも、神様のご計画に従わせてくださればよかったのに、どうして放っておかれたのですか」という具合にです。
しかし、 重要なことは、私たちがみことばに従わなければ、神様のみこころは成し遂げられないということです。私たちが神様のことばにどのように反応するかによって、主のみこころが私の人生に現れたり、現れなかったりするのです。 みことばに従う者だけが、神様のみこころを知ることができます。
これは、サーフィンに似ています。波に乗る人は、海流に身を任せればいいのです。自分で直接波を作る必要はありません。高くなった波に乗るだけなの
です。私たちは、自分の計画がだめになってしまうことがあります。私もそうでした。神様は、私がやりたいと思ったことをたくさん止められました。しかし、そのことによって失望はしませんでした。与えられた状況に従ったとき、なぜ神様が止められたのかが分かりました。
「なぜ、こんなにも事がうまく進まないのだろうか」と思うこともあるでしょう。しかし、時が経てば、もどかしくて不平を漏らしていたとき、神様はすでに違うものを備えておられたこと、そしてそれは驚くような奇跡であることが分かるでしょう。

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