■黙想エッセイ
聖書における 「放蕩息子」を、仏教では「窮子」と言います。ある長者の息子が若くして家を出て、 長い年月を自由奔放に生きた末、完全に乞食になって故郷に帰って来ました。あまりにも大変な苦労の連続だったので、息子は、以前よりも繁栄している父と父の家を見分けることができないほどになっていました。
ところが、父親は息子のことが一目で分かりました。父は使用人たちに命じて息子を連れて帰らせ、お風呂に入れて体をきれいにさせました。
しかし、自分が父親であることは明かさず、ただ息子の行動を注意深く見守っていました。息子はだんだん変わっていき、責任感があり、思慮深く、道徳的な人になりました。息子の変化に満足した父親は、そうなって初めて「私はおまえの父親だ」と明かし、彼が自分の実の息子であることを公表し、相続者として認めることを宣言しました。
この話には「恵み」という概念を見出すことはできません。しかし、聖書の放蕩息子の話には、受けるべき資格のない者に神様が無償で与えてくださる 「恵み」があります。神様は、失われた息子や娘に恵みを施すために、今も変わることなく待っておられます。そして、その愛のゆえに心を痛めておられます。これが、父なる神様の心なのです。(『リビングライフ』「黙想エッセイ」中)