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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.079  2018.12.30

■風間 真也

 

2018年の漢字は「災」だそうですが、自らの生活に照らし合わせてうなずいている方もいらっしゃるでしょう。私は数年前から「災」に見舞われており、確かに「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを」(ローマ8:28) 感じ取ってはいるけれどもその苦労が無くなるわけではありません。「あしあと」という有名な詩があります。最後の一行「あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」には感動しますが、裏を読むと、あの苦労の時、闘っているのは自分だけでイエス様がそばに居るとは思わなかった、とも読み取れます。イエス様が背負ってくれていても降り注ぐ矢を振り払うのは自分しかいないからです。
それでも嬉しいことは起こります。長女夫婦がそろそろマイホームが欲しいと探し始めました。
チラシの間取りを見てはこうしようああしよう、と話しています。ある時「子供の学校も、通勤も申し分ないしこの広さなら同居できるね。」と思わず言ったところ「いいですよ」と婿さん。社交辞令かな、とも思いましたが、確認するとそうでもなさそう。ついては、ローンが成り立つか、自己資金はどうか、など検討が始まりました。是非、欲しい物件です。いざ、申し込もうとすると「すでにほかのお客様に内定した」とのこと。娘夫婦はがっかりです。それでもなお、マイホーム探しは止まりません。やがて次の候補が見つかります。ところが少し高いのでまた、資金計画の練り直しです。そしてまた、先約が入ってしまいました。グズグズしているからとか、不動産屋さんがダミーをぶつけて焦らせる作戦では、など不平不満の続出です。他の物件を見ては、多少狭くてもこれに決めちゃおうよ、とハードルが下がって行きます。ところが私は「焦らずに待ちなさい」と落ち着いています。神様はちゃんといいものを用意してくれているのを知っているからです。案の定、とてもいい物件が見つかり、そこに決まりました。同居の始まりです。しかも時を同じくして次女が妊娠!二人目の孫を授かりました。喜びの連続です。今もお腹の中で元気よく育っています!
ところがそれもつかの間、今度は家内が40.9度という高熱が出たので救急車で病院へ。誤嚥性肺炎だろう、ということ。闘病生活が始まります。ここでもまたああでもないこうでもない、となかなか方向が定まりません。そして最終的には、転院して胃瘻を作る、ということに落ち着きました。その転院先の病院が何と、新しく買ったマンションから地下鉄で1駅ちょっとの近さ。自転車でも通える範囲です。娘たちは「ラッキーだよね!」「嬉しいね」とはしゃぎます。でも私は「ほら、神様のご計画通りだ」とニコニコしています。
このように、私は神様とつながっている、と実感し平安な日々が過ぎました。しかしながら、どうも何か足りません。平安なはずなのにどこかソワソワした感じです。そこで思い立って先生はじめ数名の方に「祈ってください」とお願いしました。するとそのソワソワがなくなったのです。自分では神様とつながっている、縦の軸はしっかりしていると思っていても信仰の友とのつながり(横の軸)があって初めて落ち着くんだと実感した次第です。祈ってもらうことがいかに心の支えになるかも実感しました。
神様は今のこの災いをも働かせて益にしてくださることは知っていても艱難苦難は通らねばなりません。イエス様が背負ってくれていても雨風にあたり、ずぶぬれになるのは私自身です。そんな時「祈っていますよ」と語りかけてくれることは何と心強いことでしょう。祈りの友がいることはなんと嬉しいことでしょうか。これはいつかお話ししましたが、一匹の迷える羊をイエス様が探している時、残りの99匹の羊は何をしているでしょうかと問いかけられたことがあります。この答えは聖書には書いていないので自分で考えるしかありません、、、、それは「99匹は心をそろえて1匹のことを祈っている」というのが私の答えです。私が闘っていてイエス様が私を背負ってくれている時、ホープチャペルの兄弟姉妹は私のことを祈ってくださっているのです。祈りが聞かれて奇跡が起こることは確かにあるでしょう。でも現実は変わらないことが多いです。しかし「祈っていますよ」と声をかけてくれること、祈って頂いている実感があることは何と心強いことでしょうか。ホープチャペルの皆様に祈って頂いている。「災」などをはるかに超えて、大きな感謝に溢れています。(風間 真也)

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